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* [[1576年]](天正4年) 1月、[[織田信長]]は総普請奉行に[[丹羽長秀]]を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の[[支城]]のあった安土山に築城を開始。
* [[1579年]](天正7年)5月、完成した天守に信長が移り住む。同年頃に、[[落雷]]により本丸が焼失したと、[[ルイス・フロイス]]が著書『[[フロイス日本史|日本史]]』に記している。
* [[1582年]](天正10年) 5月15日には[[明智光秀]]が[[饗応役]]となった[[徳川家康]]の接待が行われている。同29日の京都本能寺に信長が光秀の謀反により横死した[[本能寺の変]]の際は[[蒲生賢秀]]が留守居役として在城していたが、信長の[[横死]]後、蒲生賢秀・[[蒲生氏郷|氏郷]]父子は本拠地[[日野城]]に信長の妻子などを安土から移動させ退去。[[山崎の戦い]]の後、[[明智秀満]]率いる明智軍の退却後、天とその周辺建物(主に本丸)を焼失した。
 
本能寺の変以降もしばらく[[織田氏]]の居城として、信長の嫡孫[[織田秀信|秀信]]が[[清洲会議]]の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子[[豊臣秀次]]の[[八幡山城]]築城のため、[[1585年]](天正13年)をもって[[廃城]]されたと伝わっている。