「シケリア戦争」の版間の差分

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[[File:Carthaginian hoplite - Oplita cartaginese.JPG|thumb|カルタゴの重装歩兵(紀元前4世紀)]]
 
[[紀元前315年]]、シュラクサイの僭主[[シュラクサイのアガトクレス|アガトクレス]]は戦略的に重要な都市であるメッセネを奪取した。[[紀元前311年]]、アガトクレスはシケリアのカルタゴ勢力圏へ侵攻し、講和条約は破られた。アガトクレスがアクラガスを包囲すると、カルタゴの将軍ハミルカル(航海者ハンノの孫)はこれに反撃した。ハミルカルは紀元前311年に[[ヒメラ川の戦い([[:en:Battle of the Himera River (311 BC)|en]]でアガトクレスに勝利し、シュラクサイに撤退させた。ハミルカルはシケリアの他の部分を支配し、シュラクサイを海陸から包囲した([[:en:Siege of Syracuseシュラクサイ包囲戦 (311–309 BC紀元前311年-紀元前309年)|en第三次シュラクサイ包囲戦]])。
 
この絶望的な状況の中、アガトクレスは封鎖を突破して14,000の兵を率いてアフリカに上陸し、カルタゴ本土を攻撃することによって危機を打開しようとした。本土賭けは成功し、カルタゴハミルカルとそ経験不測で、少数殆どの兵を呼び戻しシュラクサイ軍でも対抗可能と考えためである[[紀元前310年]]、両軍はまずカルタゴ郊外の[[白チュニスの戦い([[:en:Battle of White Tunis (紀元前310 BC)|en第一次白チュニスの戦い]]で激突した。ハンノとミルカルに率いられたカルタゴ軍は敗北した。アガトクレスはカルタゴを包囲した。しかしその強固な城壁に阻まで防御さたカルタゴの攻略は出来なかっ行わず、周辺の都市を攻略・略奪して勢力を拡大した。2年後の[[紀元前307年]]に敗北するまで、アガトクレスはアフリカに留まった。アガトクレスはシケリアに戻り、カルタゴとの講和を開始したが、メッセネの損失と軍の多くを失ったにも関わらず、シュラクサイはシケリアで最大の勢力であり続けることができた。
 
[[紀元前278年]]、シュラクサイの内紛につけ込みカルタゴはシュラクサイを包囲した。シュラクサイは[[イピロス|エピロス]]王[[ピュロス]]に救援を求めた。ピュロスが到着すると、カルタゴ軍は戦闘を避けて撤退した。これがカルタゴによる最後のシュラクサイ攻撃であった([[シュラクサイ包囲戦 (紀元前278年)|第四次シュラクサイ包囲戦]])。
 
==その後==