「シケリア戦争」の版間の差分

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カルタゴの経済的成功は、ほとんどの交易を海路に依存していたため、海賊や競合都市からの脅威に対抗する必要があり、結果として強力な海軍が設立された。カルタゴを建国したのは海洋民族である[[フェニキア人]]であり、その海軍の強みと経験を受け継いでいたが、カルタゴ人は他国の支援に期待するのではなく、自身の海軍をより強大なものとした。カルタゴ海軍の増強と覇権の拡大は、地中海中央部を制覇していたギリシアとの紛争をもたらした。
 
ギリシア人もまた航海術にたけており、地中海全域に殖民都市を建設していた。二つの競合勢力は、カルタゴに近いシケリアで衝突した。双方ともに、古くからシケリアという大きな島に魅了されており、海岸沿いに多くの殖民都市や交易拠点を建設していた。両者の間には数世紀にわたって、小規模な戦いが繰り返された。
 
シケリアの最大勢力は[[シラクサ|シュラクサイ]]であった。シュラクサイの[[僭主]]達は、自軍の戦力が充実してくると、シケリア全土の支配を目指してシケリア西部のカルタゴ領への侵攻を試みた。これに対してカルタゴは本国から大軍を送り込んで反撃するというのが典型的なパターンであった。カルタゴはシュラクサイを四回包囲したが、シュラクサイは強固に防御された要塞都市であり、陥落させることは出来なかった。結局、両勢力ともにシケリアを完全に支配することはできず、西側がカルタゴ、東側がシュラクサイを中心としたギリシア都市、という状況で[[第一次ポエニ戦争]]に突入した。敗れたカルタゴはシケリアを放棄し、シケリア全体が[[共和政ローマ]]の属州となった。シュラクサイのみは独立を維持したが、[[第二次ポエニ戦争]]ではローマに敗れ、属州に組み込まれた。
 
[[第三次ポエニ戦争]]の敗北により、[[紀元前146年]]にカルタゴ本国は[[共和政ローマ]]に完全に破壊され、その図書館にあったカルタゴ側の記録は散逸した。よってこの戦争に関するカルタゴ側の記録は残っておらず、シケリア戦争に関して現在の人間が知ることが出来るのは、ギリシアの歴史家の記録に基づくものである。
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この絶望的な状況の中、アガトクレスは封鎖を突破して14,000の兵を率いてアフリカに上陸し、カルタゴ本土を攻撃することによって危機を打開しようとした。本土のカルタゴ軍は経験不測で、少数のシュラクサイ軍でも対抗可能と考えたためである。[[紀元前310年]]、両軍はまずカルタゴ郊外の[[白チュニスの戦い (紀元前310年)|第一次白チュニスの戦い]]で激突した。ハンノとボミルカルに率いられたカルタゴ軍は敗北した。アガトクレスは強固な城壁で防御されたカルタゴの攻略は行わず、周辺の都市を攻略・略奪して勢力を拡大した。[[紀元前307年]]に敗北するまで、アガトクレスはアフリカに留まった。アガトクレスはシケリアに戻り、カルタゴとの講和を開始したが、メッセネの損失と軍の多くを失ったにも関わらず、シュラクサイはシケリアで最大の勢力であり続けることができた。
 
[[紀元前278年]]、シュラクサイの内紛につけ込みカルタゴはシュラクサイを包囲した。シュラクサイは[[イピロス|エピロス]]王[[ピュロス]]に救援を求めた。ピュロスが到着すると、カルタゴ軍は戦闘を避けて撤退した。これがカルタゴによる最後のシュラクサイ攻撃であった([[シュラクサイ包囲戦 (紀元前278年)|第四次シュラクサイ包囲戦]])。
 
==その後==
アガトクレスに講和を強要した後、シケリアではしばらくは平和な時期が続いたが、シュラクサイの内紛で国力が低下した[[紀元前280278]]、カルタゴはシュラクサイを包囲した。シュラクサイは[[イピロス|エイペイロス]]王[[ピュロス]]のシケリア侵攻でこの平和に救援を求めた。ピュロスが到着すると、カルタゴ軍破られ戦闘を避けて撤退した。これがカルタゴによる最後戦争はシュラクサイ攻撃であった([[シュラクサイ包囲戦 (紀元前278年)|ポエニシュラクサイ包囲]]の遠因となる。一般的にはそうは認識されていないが、この二つの戦争はシケリア戦争の最後の段階と見ることも出来る。ピュロスはカルタゴからシケリアを奪還するためにシケリアに上陸した。ピュロスはすると、ルムス、エリクス、イアティアスを占領したが、カルタゴの最後の拠点であるリルバイウムの攻略には失敗しイタリアに引き上げた。ローマこの戦争シケリア[[第一次ポエニ戦争]]近く遠因となる。一般的位置しはそうは認識されていたにも関わらず、紀元前5世紀と4世紀の間シケリアに介入しかったが、これは紀元前5世紀にはエトルリア人とらの二つのっており、紀元前4世紀にイタシケリア半島内での征服戦争を行っていたためであの最後の段階と見ることも出来る。
 
ローマはシケリアの近くに位置していたにも関わらず、紀元前5世紀と4世紀の間シケリアに介入しなかったが、これは紀元前5世紀にはエトルリア人と戦っており、紀元前4世紀にはイタリア半島内での征服戦争を行っていたためである。また、当時のローマは有力な海軍を持っていなかった。
 
==脚注==