「シケリア戦争」の版間の差分

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==その後==
アガトクレスに講和を強要した後、シケリアではしばらくは平和な時期が続いたが、シュラクサイの内紛で国力が低下した[[紀元前278年]]、カルタゴはシュラクサイを包囲した。シュラクサイは[[イピロス|エピロス]]王[[ピュロス]]に救援を求めた。ピュロスが到着すると、カルタゴ軍は戦闘を避けて撤退した。これがカルタゴによる最後のシュラクサイ攻撃であった([[シュラクサイ包囲戦 (紀元前278年)|第四次シュラクサイ包囲戦]])。ピュロスはシケリアに上陸すると、パノルムス、エリクス、イアティアスを占領したが、カルタゴの最後の拠点であるリルバイウムの攻略には失敗した。ピュロスの専制的な振る舞いのため、シケリアのギリシア人はピュロスに対して敵対的となり、いくつかの都市はカルタゴやメッセネを強奪していた傭兵部隊である[[マメルティニ]]と同盟した。ピュロスは[[紀元前275年]]にイタリアに引き上げた。シュラクサイの僭主[[ヒエロン2世]]はマメルティニと対立し、[[紀元前265年]]マメルティニはカルタゴとローマの双方に救援を求めた。これが[[第一次ポエニ戦争]]の原因となる。一般的にはそうは認識されていないが、これらの二つの戦争はシケリア戦争の最後の段階と見ることも出来る。
 
ローマはシケリアの近くに位置していたにも関わらず、紀元前5世紀と4世紀の間シケリアに介入しなかったが、これは紀元前5世紀にはエトルリア人と戦っており、紀元前4世紀にはイタリア半島内での征服戦争を行っていたためである。また、当時のローマは有力な海軍を持っていなかった。紀元前264年、ローマはシケリアに遠征しヒエロン2世にローマとの同盟を強制した。ローマは第一次ポエニ戦争に勝利し、シュラクサイを除くシケリア全体をローマの属領とした([[シキリア属州]])。しかしシュラクサイは[[第二次ポエニ戦争]]でローマに敵対し、[[紀元前212年]]にシュラクサイは陥落([[シュラクサイ包囲戦 (紀元前214年-紀元前212年)|シュラクサイ包囲戦]])、シケリアは完全にローマの属州となった。
 
==脚注==