「BNPパリバ」の版間の差分

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:岩垣真人 「フランス財政システムの変容と会計院 権力の交錯点としての高級官僚団とLOLF 体制」 一橋法学 13(2), 2014年7月, pp.245-310.</ref>。1980年代、BNPがパレスチナテロ組織の[[資金洗浄]]の拠点となったことが[[CIA]] 関係者に暴露されていた。また、イラク[[石油食糧交換プログラム]]事件でも当局の調査対象になった。1997年には複数の銀行が保有していた[[北朝鮮]]向け融資債権をまとめて証券化し、金利のないゼロクーポン債として発行している<ref>http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20070507/124220/</ref>。総額は7億7700万ドイツマルクであった。
 
パリ割引銀行の特筆性は様々である。パリの株式銀行群において歴史の長さと規模の大きさが共に目立つ。また、19世紀後半に[[フランス・フラン]]を[[極東]]へ満足に供給しえた唯一のフランス系銀行でもあった<ref group="†">さらに。結果として1860年、政府の要請で[[フランス銀行]]に代わり各植民地銀行を助ける公認[[コルレスバンク]]となった。</ref>そして四年後に[[香港上海銀行]]の初代頭取ヴィクター・クレッサーを輩出した。しかしパリ割引銀行は、一般に閉鎖的といわれるパリの銀行の中でも特に情報開示が乏しい。E. Kaufmann が自著''La banque en France''(1914) の中で、「パリ国民割引銀行は、他の二つの預金銀行も同様であるが、自行の過去の報告書の閲覧を拒否した。[[ドイツ帝国#経済|ベルリンの友好銀行]]の懇請にもかかわらずである。それで1865年以降については、新聞論評と貸借対照表しか私は研究に利用できなかった」と述べている。パリ国立銀行によると、パリ割引銀行時代の資料は全て失われたそうである。一方、クレディ・リヨネ(現[[クレディ・アグリコル]])とソシエテ・ジェネラルと商工信用銀行(現・[[ストラスブール#概要|クレディミュチュエル]]。[[スエズ運河会社]]も参照)は、1950年代末から1960年代前半にかけて刊行された創立百周年記念の社史がある。しかし、パリ割引銀行にだけはそのようなものがない。
 
国民商工業銀行の起源は、1848年創業の[[ミュルーズ]]割引銀行と、投資銀行の''Banque Fran&ccedilse pour le Commerce et l'Industrie'' が共同で設立した''Banque Nationale de Crédit'' である。1920年代に''Banque Fran&ccedilse pour le Commerce et l'Industrie'' と合併したが、投資銀行の長期債権が[[世界恐慌]]で焦げついてしまった。そこで1932年4月、預金を政府に保証してもらい、貯蓄銀行の国民商工業銀行として再出発したのであった。以後は恐慌で行き詰まった銀行を吸収して規模を拡大、1940年には北アフリカに支店を出すまでに成長した。1947年、ロンドン支店を経営分離し、この新しい「英仏銀行」に[[スイス銀行コーポレイション|SGウォーバーグ]]とロバート・ベンソン(後のクラインワート・ベンソン・ロンズデール。[[ソシエテ・ジェネラル]]を参照。)を参加させた。パリ国民割引銀行がリテールに強いのに対し、国民商工業銀行は海外展開を得意とした。<ref name=IDCH />