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}}
'''ピエール・ジャン・ジョルジュ・カバニス'''('''Pierre Jean Georges Cabanis'''<ref>「Pierre-Jean-Georges Cabanis」のように姓以外の部分にハイフンをつけて表記する場合も多い(wikicomonsのカテゴリ分類[https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Pierre-Jean-Georges_Cabanis?uselang=ja Pierre-Jean-Georges_Cabanis]や[http://medarus.org/Medecins/MedecinsTextes/cabanis.html フランス語の伝記サイト<Pierre-Jean-Georges Cabanis>]など).その場合日本語表記もinfoBOXのように「ピエール=ジャン=ジョルジュ・カバニス」となるが、スペイン版やドイツ版wikiここではなく本国であるフランス版や英語版のwiki表記に準じてハイフンなしとした.</ref>、[[1757年]][[6月5日]] - [[1808年]][[5月5日]])は、[[フランス]]の哲学者、医学者である。[[パリ大学]]医学部教授。精神病院の暴力的実態を批判し改善プランを練った<ref>[http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/78292/1/D_Tominaga_Shigeki.pdf <理性の使用-啓蒙と社交の社会学のために>富永茂樹 2002-03-25]ページ内"カバニス"検索</ref>。[[フランス革命]]期には時代の主導的な知的思潮となる[[観念学]](イデオロジー)の主要な理論家であった。
主著として『心身論』(『人間の体と精神の諸関係』)(1802年)がある。<br /><br /><br />
 
 
== 生涯 ==
=== 誕生~少年期===
1757年、カバニスはフランス中南部[[リムーザン]]地方コレーズ県<ref>コレーズ県はカバニスが生まれた時にはまだなくフランス革命の時に新設された.この地帯は[[オック語]]方言のリムーザン語が日常言語であるなど独特の風土であった。[[コレーズ県]]</ref>の片田舎コスナック村<ref>[http://ja.db-city.com/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9--%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%B3%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E5%9C%8F--%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BA%E7%9C%8C--%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%AF DBcity.com<コスナック>]</ref>で生まれた。父ジャン·バティスト・カバニス<ref>[[:fr:Jean Baptiste Cabanis]]</ref>)は地元名門の農園主、農学者だった<ref name=t>{{harv|『哲学の歴史6』|村松正隆(執筆)|2007|pages=577-580}}</ref>。カバニスが6才のころ父はリムーザンの首都[[リモージュ]]の地方代官としてパリから来た重農主義・啓蒙主義経済学者[[ジャック・テュルゴー]]と親交を結んだ。<br /> 
カバニスは8才のとき母親を失い、隣町[[ブリーブ]]の神父に預けられ神学校に通わされたがその厳しさに適応できず退学した<ref name=k>{{harv|西迫大祐|感染症の法と歴史.|work=<第7章:カバニスと公衆衛生>(伝記部分)|2013|pp=126-127}}</ref>。一年近く家で過ごしていカバニスは、父のはからいでパリにいる父の友人テュルゴ-のもとに預けられた<ref name=f>[[:fr:Pierre Jean Georges Cabanis]]</ref>。
ティルゴーは詩人{{仮リンク|ジャン=アントワーヌ・ルーシェ|fr|Jean-Antoine Roucher}}家庭教師を依頼、彼にカバニスを預けた。ルーシェのもとでカバニスは詩作やホメロスの詩の翻訳といったなどの文学研究に打ち込んだ<ref name=f />。[[File:AnneCatherineHelvetius.jpg|thumb|190px|エルヴェシウス夫人]]
 
=== エルヴェシウス夫人のサロン===
テュルゴーやルーシェの紹介でカバニスは、裕福な啓蒙思想家[[エルヴェシウス]](1771年没)夫人アン=カトリーヌ([[:fr:Anne-Catherine de Ligniville Helvétius]])が主催している啓蒙思想家たちのサロンに出入りするようになった。エルヴェシウス死去のあくる年1872年に未亡人アン・カトリーヌは大屋敷を購入し、サロンは大きくなって百科全書派の大物たちのほか[[ベンジャミン・フランクリン]]まで常連となった。カバニス少年はここで[[ディドロ]]、[[ダランベール]]、[[コンディヤック]]といった人たちなどの知己を得る。1773年、カバニスは16才でポーランド貴族マサルスキーの秘書としてポーランドに渡ったが75年に帰国した<ref>[[:fr:Pierre Jean Georges Cabanis]]および{{harv|感染症の法と歴史|p=126}}</ref>。パリに戻ってきたカバニスは肺病を患い、エルヴェシウス夫人の好意によりエルヴェシウス邸宅の離れで療養することとなった<ref>西迫大祐は、エルヴェシウス夫人がカバニスに幼い時に亡くした息子の姿を重ねていた、と推測している({{harv|西迫大祐|2014|p=126}})</ref>。
[[File:Pierre-Jean-George Cabanis by Blondel (19 c., priv. coll).jpg|thumb|Pierre-Jean-George Cabanis by Blondel (19 c., priv. coll)]]
 
テュルゴーやルーシェの紹介で裕福な啓蒙思想家[[エルヴェシウス]](1771年没)夫人アン=カトリーヌ([[:fr:Anne-Catherine de Ligniville Helvétius]])が主催する啓蒙思想家たちのサロンに出入りするようになった。エルヴェシウス死去のあくる年1872年に未亡人アン・カトリーヌは大屋敷を購入し、サロンは大きくなって百科全書派の大物たちのほか[[ベンジャミン・フランクリン]]まで常連となった。カバニス少年はここで[[ディドロ]]、[[ダランベール]]、[[コンディヤック]]といった人たちの知己を得る。1773年、カバニスは16才でポーランド貴族マサルスキーの秘書としてポーランドに渡ったが75年に帰国<ref>[[:fr:Pierre Jean Georges Cabanis]]および{{harv|感染症の法と歴史|p=126}}</ref>。パリに戻ったカバニスは肺病を患い、エルヴェシウス夫人の好意によりエルヴェシウス邸宅の離れで療養する<ref>西迫大祐は、エルヴェシウス夫人がカバニスに幼い時に亡くした息子の姿を重ねていた、と推測している({{harv|西迫大祐|2014|p=126}})</ref>。
=== 医学の道へ===
エルヴェシウス家の離れで療養しているカバニスの主治医となったデュブルイユ医師は[[ジョン・ロック]]やサロンに集うディドロ、コンディヤックたちの思想に通暁しており、カバニスに医学と哲学の関係などを伝授し、パリ大学医学部、王立医学協会へも連れて行くなどして、カバニスは文学から医学へ進路を変えた。<ref name=k /><ref>村松正隆は、カバニスが鬱病に罹ったため文学から離れて医学へ向かった、と書いている。{{harv|哲学の歴史 6|p=577}}</ref> 1778年、カバニスは21才でパリ大学医学部に入学し、1784年、27才で医師の博士号を取得した。<ref>{{harv|感染症の法と歴史|pages=126-127}}</ref>
 
=== フランス革命===
このころ啓蒙思想・百科全書派の大物の死が相次ぎ<ref>[1778年]<sub>(没年)</sub>- ルソー、ヴォルテール。[1780年]-コンディヤック。[1781年]-テュルゴー。[1783年]-ダランベール。[1784年]-ディドロ。[1785年]-[http://www.furugosho.com/precurseurs/mably/mably.htm マブリ(コンディヤックの実兄)])</ref>、エルヴェシウス夫人のサロンは百科全書派の他に、後にカバニスと並んで観念学派(イデオロジスト)の中心人物となる[[デステュット・トラシー]]、フランス革命の指導者の一人になる[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス|シエイエス]]などがかつて、以前カバニスが病気療養していた離れに集り<ref name=k />、[[コンドルセ]]夫人ソフィーのサロンなどと並んで革命前後の代表的なサロンとなっていた<ref>{{harv|哲学史を読む <Ⅰ>|松永澄夫|2008|p=32}}</ref>。世代的の近い思想家たちと交流しながら、カバニスは医学と哲学との結びつきについて考えを深めていった。1789年のバスティーユ襲撃をきっかけにフランス革命が全土にひろがり革命政府が樹立されると、エルヴェシウス夫人のサロンはますます重要な位置を占めるようになっていった<ref>"「朝はミラボー家、昼は国民議会、夜はエルヴェシウス家」で会議が続けられる。"(『感染症の法と歴史』西迫大祐(2013)。p.127)</ref>。そういった状況のなかでカバニスはフランス革命初期の中心的主導者[[オノーレ・ミラボー|ミラボー]]<ref>ミラボーは[[バスティーユ襲撃]]の翌日に行われたバスティーユ解体作業の際に行われた儀式でつるはしを打ち込んだ(次につるはしをふるったのは『フィガロの結婚』の作者[[ボーマルシェ]])『哲学史を読む <Ⅰ>』p.31</ref>と交流を深め、ミラボーの演説―とりわけ公共行政に関する演説にはカバニスの影響が強かった<ref>1.同前書,同頁。2.『哲学の歴史6』(2007)で村松正隆は「ミラボーの演説の多くはカバニスが書いたとみなされている」としている(p.578)</ref>。カバニスも含めイデオロジストたちは立憲君主制のミラボーと親和性のある、穏健な立憲共和制主義者が多かった<ref>トラシーは王政復古の時、爵位を復活した。</ref>。
=== 恐怖政治===
盟友ミラボーは1791年に死去し、対外的な[[フランス革命戦争]]、王家・王党派の反乱、民衆の暴徒化といった動乱の中、革命政府内でも派閥闘争が激化する。
盟友ミラボーは1791年に死去し、対外的な[[フランス革命戦争]]、王家・王党派の反乱、民衆の暴徒化といった動乱の中、革命政府内でも派閥闘争が激化する。1793年に[[革命裁判所 (フランス革命)|革命裁判所]]が設置されて[[恐怖政治]]の時代が始まると、カバニス自身は嫌疑を受けながら逮捕は免れたが、貴族・ブルジョワ階級を基盤とするイデオロジストたちは[[ジャコバン派]]の糾弾を受けた。カバニスの面倒を見たテュルゴーの片腕で革命後はパリ・コミューン役員、国民公会議員議長を務めた啓蒙主義者[[ニコラ・ド・コンドルセ|コンドルセ]](フランス革命に立ち会った唯一の啓蒙主義の大物と評されている<ref>[http://cruel.org/econthought/profiles/condorcet.html マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ・コンドルセ侯爵]</ref>)は恐怖政治に反対したため逮捕され1794年3月に獄中で自殺した(毒薬は医師だったカバニスが渡したともいわれる<ref>1.{{harv|『哲学の歴史〈第6巻〉』|page=578}} 2. 隠れ家を用意したのは[[ピネル]]{{harv|理性の使用-啓蒙と社交の社会学のために|富永茂樹|p.24}} </ref>)。この時期、捕らえられ死刑判決を受けていた[[デステュット・トラシー]]を始め多くのイデオロジストは息を潜めていたが、カバニスは粛々と医学の仕事を続け、1793年秋には[[フィリップ・ピネル|ピネル]]を推薦して[[ビセートル病院]]長に任命させたりしていた<ref>1.{{harv|富永茂樹|2002|理性の使用-啓蒙と社交の社会学のために|<4.解放・Ⅱ ピネル神話の形成>|page=21}}<br /> 2. {{Cite journal|和書|author=サトウタツヤ|date=2011-10-15|title=「近代精神医療の開拓者・ピネルと描かれていない実践家・ピュッサン」イロイロ知りたい!心理学史 第5回|journal=心理学ワールド|volume=55|issue=|page=26|publisher=日本心理学会|issn=|naid=|url=http://www.psych.or.jp/publication/world_pdf/55/55-29.pdf|format=pdf|accessdate=2015-8-21}}([http://www.arsvi.com/w/st11.htm サトウタツヤ/佐藤達哉])</ref>。[[1794年]]7月に[[テルミドールのクーデター|テルミドール九日のクーデター]]が起き、恐怖政治は終焉した。
[[File:Pierre-Jean-George Cabanis by Blondel (19 c., priv. coll).jpg|thumb|Pierre-Jean-George Cabanis by Blondel (19 c., priv. coll)]]
1793年に[[革命裁判所 (フランス革命)|革命裁判所]]が設置されて[[恐怖政治]]の時代が始まると、カバニス自身は嫌疑を受けながら逮捕は免れたが、貴族・ブルジョワ階級を基盤とするイデオロジストたちは[[ジャコバン派]]の糾弾を受けた。
盟友ミラボーは1791に死去し、対外的な[[フランス革命戦争]]、王家・王党派の反乱、民衆の暴徒化といった動乱の中、革命政府内でも派閥闘争が激化する。1793年に[[革命裁判所 (フランス革命)|革命裁判所]]が設置されて[[恐怖政治]]の時代が始まると、カバニス自身は嫌疑を受けながら逮捕は免れたが、貴族・ブルジョワ階級を基盤とするイデオロジストたちは[[ジャコバン派]]の糾弾を受けた。カバニスの面倒を見ていたテュルゴーの片腕といわれ、革命後はパリ・コミューン役員、国民公会議員議長を務めた啓蒙主義者[[ニコラ・ド・コンドルセ|コンドルセ]](<ref>フランス革命に立ち会った唯一の啓蒙主義の大物と評されている<ref>([http://cruel.org/econthought/profiles/condorcet.html マリー・ジャン・アントワーヌ・ニコラ・ド・カリタ・コンドルセ侯爵])</ref>)は恐怖政治に反対したため逮捕され1794年3月に獄中で自殺した(毒薬は医師だったカバニスが渡したともいわれる<ref>1.{{harv|『哲学の歴史〈第6巻〉』|page=578}} 2. 隠れ家を用意したのは[[ピネル]]{{harv|理性の使用-啓蒙と社交の社会学のために|富永茂樹|p.24}} </ref>)。この時期、捕らえられ死刑判決を受けていた[[デステュット・トラシー]]を始め多くのイデオロジストは息を潜めていたが、カバニスは粛々と医学の仕事を続け、1793年秋には[[フィリップ・ピネル|ピネル]]を推薦して[[ビセートル病院]]長に任命させたりしていた<ref>1.{{harv|富永茂樹|2002|理性の使用-啓蒙と社交の社会学のために|<4.解放・Ⅱ ピネル神話の形成>|page=21}}<br /> 2. {{Cite journal|和書|author=サトウタツヤ|date=2011-10-15|title=「近代精神医療の開拓者・ピネルと描かれていない実践家・ピュッサン」イロイロ知りたい!心理学史 第5回|journal=心理学ワールド|volume=55|issue=|page=26|publisher=日本心理学会|issn=|naid=|url=http://www.psych.or.jp/publication/world_pdf/55/55-29.pdf|format=pdf|accessdate=2015-8-21}}([http://www.arsvi.com/w/st11.htm サトウタツヤ/佐藤達哉])</ref>。[[1794年]]7月に[[テルミドールのクーデター|テルミドール九日のクーデター]]が起き、恐怖政治は終焉した。
 
=== 充実期===
[[1795年]]に王立アカデミーの代わりに設置された[[フランス学士院|国立学士院]]で「倫理と政治の科学クラス」の主要部門「観念と感覚の分析」の会員になり講演を数多くこなし始めた(この部門には多くの観念学派が集った)<ref name=t />。生活上では、自殺したコンドルセ未亡人の妹と1796年に結婚し<ref name=f />、職業的には医学部教授となり主に医学史を講じた<ref>{{harv|感染症の法と歴史|page=139(註5)}}</ref>。
政治的には、[[1798年]]に[[総裁政府]]の立法を司る[[五百人会]]の議員となり、主に医学教育と医療行政についての発言を何度も行った。また、相変わらず続いていた対外戦争の中で頭角をあらわしてきたナポレオンをエルヴェシウス夫人のサロンに招き、好意的な対応をしていた<ref>カバニスたちはナポレオンに、アメリカ独立革命の[[ジョージ・ワシントン]]のような穏健な立憲共和制の実現を期待した,と村松正隆は述べている(『哲学の歴史6』p.584)</ref>。カバニスとサロンで仲間だったシエイエスとナポレオンを近づけ、ブリュメール十八日のクーデターが起きると支持演説を行って五百人会を説得した<ref>『哲学の歴史6』p.579および『感染症の法と歴史』p.127</ref>。
 
=== 晩年(第一帝政期)===
[[File:Tombe Cabanis (2), Cimetière d'Auteuil, Paris.jpg|thumb|100px|<small>カバニスの墓(オートゥイユ墓地)</small>]]
 
ナポレオンが独裁色を強めていくにつれ、カバニスを含めイデオロジストたちとの間は冷えていった。ナポレオンは戦争用の実学重視方針とイデオロジストの勢力を弱める意味もふくめ[[1803年]]国立学士院の「倫理・政治の科学クラス」を廃止した。トラシーはこれによって籍を失ったが、カバニスは復活・設置された[[アカデミー・フランセーズ]]に籍を得た<ref>「恐怖政治の推進者と違ってナポレオンは科学者を重要視した。観念学派は嫌ったけれど。」{{harv|哲学史を読む <Ⅰ>|page=40}}</ref>。しかし[[1804年]]ナポレオンが皇帝となり[[フランス第一帝政|第一帝政]]になるとイデオロジストたちの政治的な影響力は完全に失われた。晩年のカバニスの思索はもはや著作や講演録ではなく手紙によって窺えるのみである。 1808年5月5日、カバニスは脳出血により死去した。遺体はフランス革命後に偉人の墓所と定められた[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]に埋葬された。<ref name=t />
 
 
== 医療行政==
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イデオロジーが目指す「諸学の統一」と「人間の幸福」においてカバニスの思想の中心にあるのは医学=生理学である。<ref>{{harv|<現われ>とその秩序|村松正隆|p=14-18}}</ref>
 
「19世紀はカバニスの精神と肉体の関係論とともに始まったとさえ言われる」<ref name=ni>{{harv|西尾治子|2014|page=95}}</ref>という評価が示すようにカバニスの「心身関係論は後に影響を与えた。
 
「19世紀はカバニスの精神と肉体の関係論とともに始まったとさえ言われる」<ref name=ni>{{harv|西尾治子|2014|page=95}}</ref>
{{Cite book|和書|author=|editor=|date=|title=|translator=|publisher=|page=|isbn=|NCID=|ref=harv}}
19世紀の政治家・哲学者のシャルル・ド・レミュザ([[:fr:Charles de Rémusat]])は、カバニスの心身関係論を以下のように説明している
 
「カバニスにおいては、胃が食物を消化するように、脳が思想を消化する。かくして思想は分泌する」と説明した<ref name=ni /><ref>フランス語版ウィキソース原文: "([[s:fr:Cabanis (Ch. de Rémusat)|『カバニス』シャルル・ド・レミュザ,1844年]]" - " [[s:fr:Page:Revue des Deux Mondes - 1844 - tome 8.djvu/337]]")</ref>。
19世紀の政治家・哲学者のシャルル・ド・レミュザ([[:fr:Charles de Rémusat]])は、カバニスの心身関係論を以下のように説明した。
「カバニスにおいては、胃が食物を消化するように、脳が思想を消化する。かくして思想は分泌する」と説明した<ref name=ni /><ref>フランス語版ウィキソース原文: "([[s:fr:Cabanis (Ch. de Rémusat)|『カバニス』シャルル・ド・レミュザ,1844年]]" - " [[s:fr:Page:Revue des Deux Mondes - 1844 - tome 8.djvu/337]]")</ref>。
 
実際のカバニスの文は以下のとおりである。
{{quote|肉体的なものと精神的なものはその源泉において混ざり合う、あるいはよりよく言えば、精神的なものは、より特殊ないくつかの視点から考察された肉体的なものに他ならない。|村松正隆訳<ref>{{harv|村松正隆|2003|『感覚性・共感・模倣-カバニスの人間学を巡って-』|page=109}}原著( Euvres Philosophiques de Cabanis. <1956.PUF>、p.142)</ref>}}、
 
 
<>{{}}
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*{{Cite book|author=Pierre-Jean-Georges Cabanis|date=2013|title=Consultez l’extrait Commander Lettre, posthume et inédite de Cabanis à M. F*** sur les causes premières [http://www.hachettebnf.fr/lettre-posthume-et-inedite-de-cabanis-m-f-sur-les-causes-premieres-9782012826786] |publisher=Hachette Livre BNF}}
 
<small>(以下は[[:fr:Pierre_Jean_Georges_Cabanis#.C5.92uvres_et_publications|仏語wiki]][https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Pierre_Jean_Georges_Cabanis&oldid=117884356]より*<small>リンク先一部改変/一部略/ウィキソースへのリンク付加</small>)</small>
 
カバニスの著作は、医学史と医学教育に関するもの、医療的なもの(心理学や生理学)、文学・哲学・政治に関するものの3種がある。
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* ''Rapport sur l'organisation des écoles de médecine'' (『医学校の組織に関する報告』) (1799年)
* ''Quelques considérations sur l'organisation sociale'' (『社会組織に関する考察』)(1799年)
* ''{{wikisourcelang|fr|Rapports du physique et du moral de l'homme'' (『人間の肉体と精神についてのレポート』<『心身関係論」>) (1802年). l’homme}}
* ''Rapports du physique et du moral de l'homme'' (『人間の肉体と精神の諸関係』<『心身関係論」>) (1802年)
 
 
* ''Coup d'œil sur les révolutions et la réforme de la médecine'' (『医学の革命と改革を見て』)([1804年)
* ''Observations sur les affections catarrhales'' (『カタル性障害へのコメント』)(1807年)
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==関連項目==
{{Commonscat|Pierre-Jean-Georges Cabanis|Pierre-Jean-Georges Cabanis}}
*[[観念学]]
*[[フランス革命]]
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==外部リンク==
<!--*{{Cite web |author= |date= |url=http://www.academie-francaise.fr/fragments-dune-traduction-de-liliade-mise-en-vers-francais |title=Pierre-Jean-Georges CABANIS |work= |publisher=Acaďemie française |accessdate=20152017- 1-22 |deadlinkdate= }}
(PDFの場合)
*{{Cite web |date= |url= |title= |format=PDF |publisher= |accessdate= |deadlinkdate= }}
 
{{Commonscat|Pierre-Jean-Georges Cabanis}}
{{Philos-stub}}