「アメリカ合衆国の独立」の版間の差分

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高貴の生まれではなくて王党派であった顕著な例もあるが、その数は歴史家の推計の中には含まれていないと思われるものがある。その中でも代表的な例は[[アメリカ州の先住民族|アメリカの先住民族]]であり、アメリカ人は中立であってくれればと思っていたがこれを拒否することになった。多くの種族がイギリス帝国との同盟に動いた。地域の住民や指導者との提携を確保する動機付けが両派からなされていたが、植民地との交易に多くを頼っていた種族は革命勢力に付く傾向があった。ただし、政治的な要素も重要であった。王党派に付いた先住民族の指導者の中でも最も有名なのが、[[モホーク]]族の指導者[[ジョセフ・ブラント]]であり、[[ペンシルベニア州|ペンシルベニア]]や[[ニューヨーク州|ニューヨーク]]の孤立した開拓地を襲って回った。しかし、[[1779年]]の[[ジョン・サリバン|サリバン]]遠征隊によってニューヨークから追い出され、王党派の先住民族は[[カナダ]]への移住を余儀なくされた<ref> Nash, Lawrence (2005) ''Freedom Bound'', in The Beaver: Canada's History Magazine.[http://www.thebeaver.ca] Feb/Mar., 2007, by Canada's National History Society. pp. 16-23. ISSN 0005-7517 </ref>。
 
他にも王党派に付いてはいたが、文献などに記録されていないのが[[アフリカ系アメリカ人]][[奴隷]]であり、奴隷から解放してくれたお礼に、あるいは家族を守るため、ある場合には土地の特許を得るため(しばしばその約束は反故にされた)に積極的にイギリス軍に従軍した。戦争の進行に従ってこれら黒人王党派の多くが[[ノバスコシア州|ノバスコシア]]、[[アッパー・カナダ]]、[[ローワー・カナダ西インド諸島]]などイギリス帝国のあちこちに移住し、今もその子孫が残っている<ref>for example, see Hill (2007) [http://www.blackloyalist.com/]</ref>。
 
少数民族は戦争の間中立に留まろうとしたが、その数は明らかでない。多くは目立たないことに徹した。しかし、特にペンシルベニアの[[クエーカー]]教徒は積極的に中立を宣言した重要な集団であった。革命勢力が独立を宣言した後で、イギリスとの取引を続けていたクエーカーは、イギリス支配を支持する者、革命勢力を批判する「扇動文書の考案者や著者」として革命勢力から攻撃を受けた。
 
戦後、王党派の大多数はアメリカに残り以前の暮らしに戻った。サミュエル・シーベリーのような人物は傑出したアメリカの指導者になった。10万人から25万人と見られる王党派がカナダ、イギリスあるいは[[西インド諸島]]に移住し、歴史上でも大きな移住の一つとなった。これはアメリカ植民地人口の5%程度となった。1783年に南部の王党派が西インド諸島に移住するとき、約75,000名の奴隷も伴って行った<ref> Greene & Pole (1994) ch 20-22</ref>。西インド諸島ではアメリカより26年早く奴隷が解放された。
 
=== 愛国者の中の階級による違い ===
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