「アンリ・ヴュータン」の版間の差分
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≪ヴァイオリン協奏曲 第1番≫は、[[1849年]]の[[サンクトペテルブルク]]における世界初演と、その翌年の[[パリ]]初演において絶賛され、ベルリオーズから「ヴァイオリンと管弦楽のための格調高い交響曲」と評された。ヴュータンはパリを拠点に作曲家として大躍進を続け、演奏家としてピアニストの[[ジギスモント・タールベルク]]をパートナーに、ヨーロッパ各地ばかりでなく、[[アメリカ合衆国]]においても活躍した。とりわけ[[ロシア帝国]]で尊敬をかち得て、[[1846年]]から[[1851年]]まで、[[ニコライ1世]]の宮廷音楽家と帝室劇場の首席演奏家に任命されてペテルブルクに定住、また教師として[[ペテルブルク音楽院]]ヴァイオリン科のその後の繁栄の基礎を固めた。
[[1871年]]に帰国し、[[ブリュッセル音楽院]]の教授として、[[ウジェーヌ・イザイ]]らの逸材を輩出する。[[脳卒中]]による[[麻痺]]により右半身の自由を奪われたため、音楽院の講座を[[ヘンリク・ヴィエニャフスキ]]にゆだねて、パリに渡って治療に専念した。次第に快復するかに見えた矢先の[[1879年]]、発作が再発、それきり演奏家としての経歴に終止符が打たれた。最晩年は娘夫婦の暮らす[[アルジェリア]]に引き取られ、大ムスタファ(Mustapha Supérieur)療養所において余生を過ごして作曲活動を続けたが、もはや演奏できず、ヨーロッパの芸術文化の中心地から遠く引き離され、自作が演奏されるのも聞くことさえままならぬ我が身の不幸を嘆いていた。[[キャリッジ]]で移動中に現地の酔っ払いの投げた石で頭部を負傷し、その傷の合併症でムスタファ・レザルジェにて没した<ref>{{Cite web |url=http://ljms.org/directory/listing/program-sdys-chamber-orchestra-with-ning-feng |title=PROGRAM NOTES: SDYS Chamber Orchestra with Ning Feng, violin |accessdate=2017-01-23 |archiveurl=http://www.peeep.us/87c89b22 |archivedate=2017-01-23}}</ref>。
==作品==
ヴュータン作品の根幹をなすのはヴァイオリン曲であり、7曲ある協奏曲と、変化に富んだ短いサロン小品が含まれるが、生涯の終わりにかけてヴァイオリン演奏を断念してから、しばしば他の楽器に切り替え、2つの[[チェロ協奏曲]]と1つの[[ヴィオラソナタ|ヴィオラ・ソナタ]]などを作曲した。[[弦楽四重奏曲]]は3曲ある。しかしながら、ヴュータンがヴァイオリンの歴史において、フランコ=ベルギー
ヴュータンの協奏曲は、上記のベルリオーズの語録からも分かるように、独奏楽器とオーケストラのシンフォニックな一体感や音色の対比を追究した作品に仕上げられ、メンデルスゾーンや[[カール・マリア・フォン・ウェーバー|ウェーバー]]、[[フランツ・リスト|リスト]]を思わせる楽章の結合や形式の実験など、作曲技法でも創意を示している。この意味で、同時代の演奏家による協奏曲にありがちな、独奏楽器がオーケストラをしたがえて超絶技巧を誇示する作例とは、ヴュータンは一線を画している。晩年のチェロ協奏曲は、ヴュータンの鬱屈した心理状態を表白するかのように、重苦しい情感に満たされている。
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== 外部リンク ==
<references />* {{IMSLP|id=Vieuxtemps%2C_Henri|cname=アンリ・ヴュータン}}{{デフォルトソート:うゆたん あんり}}[[Category:ロマン派の作曲家]][[Category:1881年没]][[Category:ベルギーの作曲家]][[Category:ベルギーのヴァイオリニスト]][[Category:ブリュッセル王立音楽院の教員]][[Category:ウィーン国立音楽大学出身の人物]][[Category:1820年生]]{{Authority control|CINII=DA09116241}}
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