「景山民夫」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
雑多な内容の整理
25行目:
[[1947年]]([[昭和]]22年)3月20日、警察官僚(のち[[全日本剣道連盟]]会長)の[[景山二郎]]<ref>[http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kageyama_j.html 歴史が眠る多磨霊園 景山二郎]</ref> を父として、[[東京都]][[千代田区]][[神田 (千代田区)|神田]]の病院で生まれる(当時の自宅は東京都[[杉並区]])。[[本籍地]]は[[広島県]][[広島市]]<ref name="dakaranannada">自著『だから何なんだ』、p275-278、[[朝日新聞社]]、1990年</ref>。景山家は元々、[[広島県]][[三次市]]の出で、親戚はみな三次市にいるという<ref name="dakaranannada"/><ref name="watasihaikanisite">自著『私は如何にして幸福の科学の正会員となったか』、p10、[[太田出版]]、1992年</ref>。母方の祖父[[橋本清吉]]は[[福島県知事一覧|福島県知事]]や[[岡山県知事]]、[[衆議院議員]]([[改進党]])などを歴任。
 
千代田区内にある[[暁星小学校]]に入学、同級生に[[尾上辰之助 (初代)|尾上辰之助]]がいた<ref name="happyend" />。カトリック系の学校だったので、なんとなくキリスト教を意識するようになったが、家は神道であったという<ref name="happyend" />。その後、父の[[中国管区警察局]]公安部長転任に伴い広島市に転居。私立で裕福な家庭の子女が多い暁星から、[[第二次世界大戦]]後数年の広島市立の普通の小学校に入り、強烈な[[広島弁]]、[[被爆]]で背中一面[[ケロイド]]の担任の先生、[[夜店]]で[[拳銃]]を売買する光景などを目撃し大きなショックを受ける<ref name="dakaranannada"/><ref name="watasihaikanisite"/><ref>自著『どんな人生にも雨の日はある』、p55-56、ブロンズ新社、1989年</ref>。
 
===中高、大学時代===
広島の後、[[山梨県]]に転居。さらに両親は[[秋田県]]に転勤となったが名門[[武蔵中学校・高等学校|武蔵中学]]を受験・入学したため秋田には行かず、その後は東京・[[半蔵門]]のおばの家に寄宿。この頃アメリカのバラエティ番組『[[ペリー・コモ]]ショー』『[[アンディ・ウィリアムス]]・ショー』や『[[パパは何でも知っている]]』などに夢中になった。[[武蔵中学校・高等学校|武蔵高校]]を経て、卒業後は[[東京藝術大学|芸大]]の油絵学科と[[慶應義塾大学]][[文学部]]中退を受験したが[[武蔵野芸大の最終の試験日が重なり、結局慶應の文学部へ進み、すぐにグラフィック・デザインをやる「商業美術研究会」に入る。慶應で留年を重ね、1年生を2回繰り返しても進級できず退|処分を受ける(したがって専門課程には上がっていない)。その後、デザイン関係の仕事がしたくなり、武蔵野美術短学]][[デザイン]]中退に移る<ref name="happyend" />。武蔵高校の同級生に[[高平哲郎]]がいる。
 
大学時代にカレッジフォークグループ「モダン・フォーク・フェローズ」にベースとして参加。モダン・フォーク・フェローズの一員として、[[EMIミュージック・ジャパン|東芝]]から『さよならは云わないで』『朝焼けの中に』の2枚の[[EP]]を出す。
 
=== 放送作家として ===
[[1968年]](昭和43年)に放送作家となり『[[シャボン玉ホリデー]]』を手掛ける。[[1969年]](昭和44年)に武蔵美のキャンパスがロックアウトされ[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡り、[[サンフランシスコ]]のブロードウェイ近くのコーヒーショップでギターの弾き語りとして働いていた。
 
以後1年半の間生活したニューヨークでは、[[グリニッジ・ヴィレッジ]]のコーヒーショップ「フォーウィンズ」で[[フォークソング|フォーク]][[歌手]]として出演していたほか、[[マリファナ]]仲間と[[ウッドストック・フェスティバル]]に向かおうとしたなどのエピソードがある。ただし、アメリカ時代の経歴については、後に著書で「創作を含んでいる」と自著で述べている。
 
帰国後、再び放送作家として『[[タモリ倶楽部]]』、『[[11PM]]』、『[[クイズダービー]]』等、数多くの番組の構成を手が担当し、多いときには週12本を掛持つ売れっ子となる。同じく放送作家の[[高田文夫]]と『民夫君と文夫君』のコンビを結成、「[[立川]][[八王子]]」として[[落語立川流]]に入門した。テレビ出演にも積極的で、風貌が似ていた[[三浦和義]]のカリカチュア「フルハム三浦」、「スワッパー三浦」として『[[オレたちひょうきん族]]』の「ひょうきんプロレス」に[[プロレスラー]]として出演したほか、『[[料理の鉄人]]』の審査員として登場した。変わったところでは[[北海道テレビ放送]](HTB)のローカルの深夜お色気番組『純ちゃんの派?手?ズナイト』(毎週土曜の0時からの60分番組で司会は[[高田純次]])のレギュラーとして出演し、毎回ギターを弾きながら歌を披露していた。
 
また、風貌が似ていた[[三浦和義]]のカリカチュア「フルハム三浦」、「スワッパー三浦」として『[[オレたちひょうきん族]]』の「ひょうきんプロレス」に[[プロレスラー]]として出演したほか、『[[料理の鉄人]]』の審査員として登場するなど、自身も盛んにメディアに登場した。
 
高平哲郎、[[萩本欽一]]などを公然と批判。[[ビートたけし]]から「この人ほど番組を潰してきた作家はいない」と評されている{{要出典|date=2010年7月}}。この辺りの顛末は、当時『[[宝島 (雑誌)|宝島]]』誌に連載していた自身のエッセイ『極楽TV』に詳しい。
 
*1日だけサイベマンを経験する。結婚相手の父親の要望[[博報堂]]に入ったがはこの間とても勤まらないと思い、1日で退職した。武蔵野美術短大の同級生と結婚して飯倉片町のマンションに住む。[[1972年]]に長女が生まれたが、重度の心身障害を患っており、[[1990年]]に死去するまで寝たきりの生活を送っていた<ref name="uwashin">『噂の眞相』1998年4月号 曾我静太郎「焼死した景山民夫の人生を狂わせた幸福の科学と夫人の出会いの"不幸"」</ref>。最初の妻との間には一男二女を儲けたが、3年間の別居生活を経て[[1980年]]に離婚が成立。月々35万の生活費・養育費を15年間払うことを自ら決める。その後次女は英国の大学に進み、長男は慶應義塾大学に進んだ
 
=== 作家として ===
中学から大学を通じての後輩である[[小黒一三]]の依頼により、[[エッセイ]]『普通の生活』を雑誌『ブルータス』に連載しエッセイストとして注目される。[[1987年]](昭和62年) 『ONE FINE MESS 世間はスラップスティック』で、第2回[[講談社エッセイ賞]]受賞。同時受賞は[[吉行淳之介]]。小説家としての処女作となる冒険小説『虎口からの脱出』で1987年(昭和62年) 第8回[[吉川英治文学新人賞]]、第5回[[日本冒険小説協会]]最優秀新人賞受賞。[[1988年]](昭和63年)、『[[遠い海から来たCOO]]』で第99回[[直木賞]]受賞。これ以降は文筆業1本に絞ろうと思い、放送作家としての仕事を断り始める。その結果、年収が半減したという
 
=== 幸福の科学 ===
52行目:
 
=== 死去 ===
[[1998年]](平成10年)[[1月26日]]深夜に、成城の自宅書斎で喫煙しながら[[趣味]]である[[プラモデル]]制作をしていたところ、接着剤から気化したシンナーに引火。煙草の不始末だとされる。し、27日午前1時半頃に死去したとされる。{{没年齢|1947|03|20|1998|01|27}}。死因に関しては当初、やけど、もしくは一酸化炭素中毒と報じられたが公式には特定されていない。おらず、視は死も行われたが公表されていない。旧友[[高平哲郎]]は、病院で医師に「火傷の方はそんなに重度ではないんですが、一酸化炭素を吸っていますんで難しいところですが、まだ蘇生の手当は続けています」と告げられた。また、息を引き取った後「民夫は顔だけを出して、身体は白いシーツに包まれていた。」「髪はシャワーを浴びてきたような濡れ方をしていたが、多少すすをつけた顔に火傷はなかった。」と述べている。<ref>[http://web.archive.org/web/20030430034012/http://www.shobunsha.co.jp/html/takahira-2/05.html あなたの想い出]</ref>。
 
出棺の際、妻は大好きだった『[[トラブル・バスター]]』の田所局長の言葉を引用します、と前置きの後、「バカヤロー! 寂しいじゃねーか!」と早すぎる死を悼んだ。葬儀は幸福の科学が執り仕切った(葬儀委員長は[[小室直樹]])。
 
長年審査員を務めた『[[料理の鉄人]]』には、彼を追悼するテロップが流された(逝去直前に収録されていた回があり、それを放送するため)。また、同日放送された[[朝日放送]]『[[探偵!ナイトスクープ]]』でも登場する場面があったため、収録日時を表示した。
173行目:
 
== エピソード ==
*生まれて初めて映画を見たのは[[力道山]]が活躍していた5歳の頃。神田日活で、[[ボブ・ホープ]]の『[[腰抜け二挺拳銃]]』であった<ref name="happyend">『ハッピーエンドじゃなけりゃ意味がない』の年譜より</ref>。
{{雑多な内容の箇条書き|date=2011年2月|section=1}}
*生まれて初めて映画を見たのは[[力道山]]が活躍していた5歳の頃。神田日活で、[[ボブ・ホープ]]の『[[腰抜け二挺拳銃]]』であった<ref name="happyend">『ハッピーエンドじゃなけりゃ意味がない』の年譜より</ref>。
*身長が185センチもあったのは<ref>ただし『普通の生活』p.177(朝日新聞社、1984年)では「僕の身長は184センチだ」と書いている。</ref>、大正生まれの父親が176センチと当時としては大柄であり、かつ母親も比較的大きかったため。身長のためか中学、高校とバスケットをやっていたが進学校ということもあり、スポーツへの情熱はさほどなかった<ref name="happyend" />。
*小学校は[[学校法人暁星学園|私立暁星学園]]。同級生に[[尾上辰之助 (初代)|尾上辰之助]]がいた<ref name="happyend" />。カトリック系の学校だったので、なんとなくキリスト教を意識するようになったが、家は神道であった<ref name="happyend" />。
*小学校6年の時に父の転勤で甲府へ。この時UFOを目撃する。これは個人的な体験ではなく、当時「[[甲府事件]]」として新聞にも載った有名な事件だった<ref name="happyend" />。もっとも当時はUFOではなく“空飛ぶ円盤”としての報道だった。
*[[武蔵中学校・高等学校|武蔵中学]]に入学が決まっていたために、麹町の祖母の家に下宿する。甲府から戻ってみると、東京のテレビのチャンネルの多さに驚いた。同時にアメリカのバラエティ番組「[[ペリー・コモ]]ショー」「[[アンディ・ウィリアムス]]・ショー」や「[[パパは何でも知っている]]」などに夢中になった。この年、渋谷の[[リキパレス]]の前で本物の力道山を見る<ref name="happyend" />。
*中1の終わりに[[小児リューマチ]]にかかり入院し、1週間意識がなく、高熱が4週間も続いた。注射をどんどん打たれたためホルモンの異常をきたし、入院時に38キロ足らずしかなかった体重がわずか2ヶ月で73キロになった。病院を抜け出して[[蔵前国技館]]へ行き花道で相撲を見ていたら、やにわに後ろの人が肩をたたき、次に腰をたたいた。振り返ってみると、それは初代の[[若乃花幹士 (初代)|若乃花]]であった。仕事熱心な親方は、相撲にふさわしい体かどうかを触って確かめたのであった。もちろん、体重は病気が全快すると風船がしぼむようにもとの体重に戻ってしまった<ref name="happyend" />。
*この大病の時に[[臨死体験]]をする。「僕は病気をして、これこれの体験をして、こういうものを見ました。だから、もう死ぬことが怖くなくなりました」と当時の作文に書いた<ref name="happyend" />。
*14歳の時、[[八方尾根]]であるスキー合宿の帰りに、父親の友人が経営している甲府の旅館に一人で泊まった時に、初めて「幽霊」を見る。そのせいで、なかなか眠れず、台所に忍び込んでビールを飲む<ref name="happyend" />。
*動物が好きで世界中を巡りながら、ラッコやクジラと戯れていた。愛犬家で家ではまだ珍しかったゴールデン・レトリバーを飼っていた。愛犬の名前は[[マルクス兄弟]]の一人に因んだ「[[ハーポ・マルクス|ハーポ]]」であった<ref name="happyend" />。
*中学の時、「[[ウエストサイド物語]]」に出演していた[[タッカー・スミス]]にあこがれ、前髪を脱色して金髪にしてしまった。当然教師から追及されたが「いえ、僕は生まれてから、ずっとこういう髪の毛です」と言い張った<ref name="happyend" />。
*武蔵中学から武蔵高校に上がる時の成績は151名中147番<ref name="happyend" />。
*武蔵高校で「制服着ない運動」というのをやったら教師に叱られたので、その対抗手段として[[アメリカン・ファーマシー]]で大量に買ったスウェットシャツに〈MUSASHI〉とプリントしたのを着て登校し、それを友だちにも売った。夏場には校章まで入ったTシャツをつくる。この頃すでに放送作家になることを決心していた<ref name="happyend" />。
*[[東京藝術大学|芸大]]の油絵学科と慶應の文学部を受験したが、芸大の最終の試験日が重なり、結局慶應の文学部へ進む。日吉で2食付きの下宿生活。すぐにグラフィック・デザインをやる〈商業美術研究会〉に入る。そのクラブで流行のフォークバンドをつくろうということで、ベースを担当することになる。ベースを持たされて3日目にはステージに立っていた。慶應で留年を重ね、1年生を2回繰り返しても進級できず退学処分を受ける(したがって専門課程には上がっていない)。その後、デザイン関係の仕事がしたくなり、武蔵野美術短大デザイン学科に移る<ref name="happyend" />。
*春から武蔵美のキャンパスがロックアウトされアメリカに旅立つ。サンフランシスコ、ニューヨーク、ニューオーリンズなどに滞在。いきなり英語が話せる自分にビックリする。1日の差で歴史的なコンサート「[[ウッドストック]]」を見逃した<ref name="happyend" />。
*アメリカより帰国。「[[シャボン玉ホリデー]]」に放送作家として戻る。また、「[[ヤング720]]」(TBS)に出演し同時に企画にも参加する<ref name="happyend" />。
*[[成毛滋]]の率いるロック・バンド、[[フライド・エッグ]]の1972年発表のファースト・アルバム「[[ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン]]」のジャケットのイラストを描いている。コタツでミカンを食べ、お茶を飲みながら描いていた為に、良くみるとミカンの果汁のシミや、こぼしたお茶のシミがあると本人が告白していた<ref name="happyend" />。
*愛車選びも変わっており、多額の印税が入り受け取った帰りには現金一括で当時ヒットしていた47万円の[[スズキ・アルト]]を購入したという。また、どんな車よりも目立つからという理由で、工場払い下げ小型の[[消防車]]を買い取って乗り回し、最後は友人にプレゼントしたが、さすがにもらった側も困惑したという<ref>出展は週刊文春などのインタビューで幾度か触れている。消防車について「友人の子供にプレゼントの希望を尋ねると消防車と返ってきたので友人宅に置き去りにして願いを適えた。」とも発言している。</ref>。
*1日だけサラリーマンを経験する。結婚相手の父親の要望で[[博報堂]]に入ったが、とても勤まらないと思い、1日で退職した。武蔵野美術短大の同級生と結婚して飯倉片町のマンションに住む。[[1972年]]に長女が生まれたが、重度の心身障害を患っており、[[1990年]]に死去するまで寝たきりの生活を送っていた<ref name="uwashin">『噂の眞相』1998年4月号 曾我静太郎「焼死した景山民夫の人生を狂わせた幸福の科学と夫人の出会いの"不幸"」</ref>。
*構成作家として活躍。「[[クイズダービー]]」を[[大橋巨泉]]らとともに企画し、高視聴率を獲得。週12本の番組構成をしていた<ref name="happyend" />。
*最初の妻との間には一男二女を儲けたが、3年間の別居生活を経て[[1980年]]に離婚が成立。月々35万の生活費・養育費を15年間払うことを自ら決める。次女は英国の大学に進み、長男は慶應義塾大学に進んだ<ref name="uwashin" />。
*1980年 - 1981年、[[北海道テレビ放送]](HTB)のローカルの深夜お色気番組「純ちゃんの派?手?ズナイト」(毎週土曜の0時からの60分番組で司会は[[高田純次]])のレギュラーとして出演し、毎回、ギターを弾きながら歌を披露していた。
*39歳で再婚。文筆業1本に絞ろうと思い、放送作家としての仕事を断り始める。その結果、年収が一挙に半分になる<ref name="happyend" />。
*愛車選びも変わっており、多額の印税が入り受け取った帰りには現金一括で当時ヒットしていた47万円の[[スズキ・アルト]]を購入したという。また、どんな車よりも目立つからという理由で、工場払い下げ小型の[[消防車]]を買い取って乗り回し、最後は友人にプレゼントしたが、さすがにもらった側も困惑したという<ref>出展は週刊文春などのインタビューで幾度か触れている。消防車について「友人の子供にプレゼントの希望を尋ねると消防車と返ってきたので友人宅に置き去りにして願いを適えた。」とも発言している。</ref>。
 
== 脚注 ==