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これらのことから、一転して庾亮に好意を抱くようになった陶侃は、息子の陶瞻が蘇峻に殺されたこともあって、彼と共に反乱鎮圧に協力することを応諾、これによって庾亮は蘇峻のよる石頭城に逆襲をかけ、[[329年]]、ついに反乱を平定することに成功した。
 
蘇峻の乱の平定後、庾亮は乱の責任をとって中書令を辞して後任に弟[[庾冰]]を充て、朝廷の政務の一切を王導に委ねると、自らは平西将軍・豫州刺史として蕪湖に鎮し、北方の防衛に専念する。[[334年]]、陶侃が死去すると、その後任として征西将軍・荊州刺史となり、彼の率いていた西府軍団を継承した。強大な軍事力を手中にした庾亮は、前任者の陶侃同様、北府軍団を率いる[[チ鑒|郗鑒]]に手紙を送り、朝廷にあって放任主義的な政策をとる王導を退けようと画策したが、郗鑒が賛同しなかったことにより、挙兵を取りやめた。王導の死後は二大軍閥の領袖として影響力を持ち、中央で中書令を務める庾冰の存在と合わせて庾一門の権勢が再び増した。
 
また、当時[[後趙]]の[[石勒]]が死去したことから、これを中原および蜀を回復する好機として、鎮を[[襄陽市|襄陽]]に移すことを上奏したが、[[339年]]、北伐の拠点となる邾城が後趙によって陥落したため、この計画は頓挫した。庾亮は責任をとって自ら位を三等落とし、安西将軍に降格することを上奏する。北伐計画の挫折に落胆した庾亮は、憂いから病を発してしまう。