「イヴァン・ヴァゾフ」の版間の差分

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=== 幼少期 ===
[[File:Vazov_Museum_Sopot.jpg|300px|thumb|Geburtshaus Wasows]]
ミンチョホ・ヴァゾフとサバ・ヴァゾフのあいだにソポトで生まれる<ref>[http://www.slovo.bg/showwork.php3?AuID=14&WorkID=286&Level=1 Iwan Wasow in seiner Autobiographie]</ref>。商人の家庭。伝統的自意識が強かった家柄であり、兄弟にブルガリアの革命家でのちに国軍の将軍になるゲオルギ・ヴァゾフやウラジミール・ヴァゾフ、また、政治家になったボリス・ヴァゾフがいる。ボリスによればヴァゾフ家は[[テペデレンリ・アリー・パシャ]]の治世中に現在のギリシャ地域カストリア地区にあたる村ヤノニから逃れる形で来たという<ref>Petar Kartschew, ''Prez prozoreca na edno polustoletie (1900–1950)'', Sofia, 2004, S. 274.</ref>。
 
イヴァン・ヴァゾフは[[ソポト]]でブルガリア修道院付属の学校や中等学校を卒業。早い時期からブルガリアや外国の文学と出会う。ヴァゾフはロシア関係を専門とする先生パルテニー・ベルチュヘフから初めてロシア詩やブルガリアの革命作品に触れる。1865年、ヴァゾフはカロフェルにある学校で教師のボトヨ・トコフ(ブルガリアの詩人で独立革命家の[[フリスト・ボテフ]]の父親)から[[ギリシャ語]]の手ほどきを受ける。ヴァゾフは[[フランス文学]]や[[ロシア文学]]の作品がふんだんにあった蔵書を見つけ、耽読、以後の文語的発達に寄与する。1866年、青年ヴァゾフは父によってプロヴディフに送られ、高等学校の4年生に在籍する。父はヴァゾフがギリシャ語を上達し、さらに[[トルコ語]]を学ぶことを望んでいたけれども、ヴァゾフは[[フランス語]]を学び、[[ピエール=ジャン・ド・ベランジェ]]、[[ヴィクトル・ユゴー]]、[[アルフォンス・ド・ラマルティーヌ]]といったフランスの詩人たちの詩を読んでいた。2年後、彼は父から事業を引き継ぐためソポトに帰郷する。けれども青年イヴァンは事業にほとんど関心を示さず、はやくも事業書の代わりに韻文の書物に熱中。イヴァンは母サバから支援を受ける。このころに書かれた詩の多くは後年になって『マイスカ キトカ』 (''Майска китка'')と題されたうえで1880年に出版される。
 
=== ルーマニアへ ===
(bulg. ''Тъгите на България''; Tagite na Balgarija)といった詩集を書きあげて刊行した。
 
1877年から1878年にかけて勃発した露土戦争の中、ヴァゾフはスビシュトフやルセで元ロシア副領事ナイデン・ゲロフのもとで事務員として採用される。彼は当時まだ外国支配下で生活するブルガリア人にたいして呼び掛けた詩集『救世』 (ブルガリア語 ''Избавление'')を書いた。 1879年3月から1880年9月にかけて彼はベルコビツァ地域の訴訟機関で判事長を務め、その司法経験は長編詩『グラマダ』 (ブルガリア語. ''Грамада'')を書く動機になっている。
 
=== プロブディフ ===
1880年10月5日、ヴァゾフは[[東ルメリ自治州]]の州都[[プロブディフ]]に居住。ヴァゾフはトルコの支配下であったブルガリアの東ルメリ自治州で積極的に政治活動に乗り出し、親ロシア派の東ルメリア人民党(後年の1894年に結党の人民党とは別)の党員になる。彼は地方議会(bulg。Областнотосъбрание)で副議長に選出され、『マリツァ』 (bulg. „Марица“)、『民衆の声』 (bulg. „Народний глас“)、『連帯』 (bulg. „Съединение“)といった新聞の編集者になった。[[ブルガリア公国]]の公[[アレクサンダル1世]]は1881年にタルノヴォ憲法の廃止と臨時政府樹立を宣言したため、ヴァゾフは厳しい批判者の一人になる<ref>Die erste bulgarische Verfassung wurde von der Nationalversammlung am 16. April 1879 in [[Weliko Tarnowo]] ausgearbeitet, woher auch ihr Titel ''Verfassung von Tarnowo'' stammt. Als Vorbild galt die zu diesem Zeitpunkt recht neue und moderne Verfassung [[Belgien]]s</ref>。
 
1881年初めにヴァゾフはプロブディフ科学・文學界 (ブルガリア語 Пловдивското научно книжовно дружество)の代表に選出される。ブルガリア独立後、最初のブルガリアの科学誌である『科学ジャーナル』 (bulg. „Наука“)の編集者になる。同年、ブルガリア科学アカデミーの会員に選ばれる。 1885年、作家コンスタンチン・ウェリチョコフと一緒にブルガリアの文芸誌『ソラ』 (bulg. „Зора“; 'Morgenröte')を創刊する。この2人はともにブルガリア人や外国人の作家の作品を多く掲載している文芸誌『ブルガリアの読者』 (bulg. „Българска христоматия“)の編集者でもある。
 
プロブディフでヴァゾフはブルガリア公国と東ルメリ自治州が合併することについて東ルメリア人民党から拒否されるが、その後、ブルガリアはセルビア・ブルガリア戦争で勝利したため、国際社会は事実上、ブルガリアの東ルメリ自治州併合を容認したがために、東ルメリア人民党は政治的地位を失った。
スロバキアの首都ブラチスラバにあるヴァゾフ通り、[[南極大陸]]の[[サウスシェトランド諸島]]リヴィングストン島にあるヴァゾフ岬、ヴァゾフ岩礁も彼の名をとり命名された。
 
1917年に[[ノーベル文学賞]]ノミネート<ref>{{cite web |url= http://www.nobelprize.org/nomination/archive/show_people.php?id=9573 |title= Nomination Database |accessdate=May 27, 2016-05-27 |via= Nobelprize.org}}</ref>。
 
== 著作 ==