「本願寺の歴史」の版間の差分

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→‎戦国時代の本願寺: 大永元年8月23日を永正18年に改め。まだ永正
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[[明応]]9年([[1500年]])、実如の長男[[照如]]、22歳で入寂。
{{indent|永正年間。越前(福井県)の[[朝倉氏]]の内紛に加賀(石川県)の門徒が介入([[九頭竜川の戦い]]など)。}}
{{indent|[[永正]]元年(1504年)、[[相模国|相模]](神奈川県)の[[後北条氏]]は、この年から50年間にわたって領内の[[浄土真宗|真宗]]を禁ずる。}}
{{indent|永正3年(1506年)、近畿・北陸・東海で、本願寺門徒が一斉に蜂起する。}}
永正4年(1507年)、家督相続候補の1人が養父である[[管領]][[細川政元]]が家督争いのため暗殺される([[永正の錯乱]])。本願寺は蓮如以来、政元と親交があった本願寺としては、紛争にまれることを恐れ、実如と宗祖真影は近江堅田に避難する。
 
永正6年(1509年)、実如、山科本願寺に戻る。
 
永正13年(1516年)、[[後柏原天皇]]の[[勅願寺]]となる。
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[[大永]]5年([[1525年]])[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]、第九世実如の遷化にともない、孫の証如が本願寺を継承し第十世となる。
 
[[享禄]]5年(1532年)6月、[[細川晴元]]の要請を受けた証如は、近畿の門徒2万人を動員して[[畠山氏]]・[[三好氏]]連合を撃破([[飯盛山城#飯盛城の戦い|飯盛山城の戦い]])。[[堺公方]]も滅亡
{{indent|ところが[[天文 (元号)|天文]]に改元後の同年8月、蜂起させた晴元は本願寺を見限り、[[法華一揆]]と結託して[[一向一揆]]との全面対決に及んだ。}}
{{indent|晴元派の京都の[[日蓮宗]]徒と近江の[[六角定頼]]の連合軍の焼き討ちによって、同月12日に大津顕証寺を、同月24日には山科本願寺を焼失する([[山科本願寺の戦い]])。}}
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{{indent|合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していく。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因となる。}}
 
[[天正]]8年(1580年)3月、顕如は[[正親町天皇]]の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れた顕如は、信長と和議が成立すに応じる。顕如穏健派と共に石山本願寺から[[紀伊国|紀伊]]鷺森('''[[本願寺鷺森別院|鷺森本願寺]]''')へ退隠する。しかし教如は、信長を信用せ<ref name="shinyou">[[長島一向一揆]]において、信長は和睦成立後に、反故し一揆勢を虐殺した前例があるため。</ref>教如は徹底抗戦を主張する。そのしたため顕如は、教如をから義絶<ref name="gizetsu">信長の目を逸らすための顕如の策略との説もある。</ref>され。義絶後が、それでなお「石山本願寺」に籠城する(大坂拘様)。
 
同年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]、教如は、近衛前久の退去説得に応じた教如は、「石山本願寺」から退去し、信長に明け渡す。その直後に「石山本願寺」に火が放たれ灰燼と化す。退去に応じただけで強硬姿勢を緩めぬ教如は、その後も強硬派への支持を募る。
{{indent|天正10年([[1582年]])[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]、[[本能寺の変]]が起こり、信長自害。}}
 
同年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]、顕如、[[後陽成天皇]]は顕如にから教如の赦免を提案される。
 
同年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]、教如は、顕如より義絶を赦免される。赦免後は、顕如と共に住し、寺務を幇助する。