「孫叔敖」の版間の差分

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'''孫叔 敖'''(そんしゅく ごう、生没年不詳)は、[[中国]][[春秋時代]]の[[楚 (春秋)|楚]]の[[公族]]、[[令尹]]。[[姓]]は'''羋'''、[[氏]]は'''蔿'''、あるいは'''孫叔'''、[[諱]]は'''敖'''、または'''艾猟'''、[[字]]は'''孫叔'''。[[イ賈|蔿賈]]の子。'''蔿敖'''、'''蔿艾猟'''とも呼ばれる。
 
[[荘王 (楚)|荘王]]に仕えて[[楚 (春秋)|楚]]の富国強兵を成し遂げ、荘王に天下の覇権を握らせた。
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孫叔敖は死の直前に息子(甥とも)の[[蔿子馮]]を招いて「王は私が死んだ後に多くの領地を贐としてくださるだろうが、[[寝丘]](楚の最も痩せた土地)のみを受け取るように」と言い残してこの世を去った。果たして生前の孫叔敖の功績に対して多くの恩賞が授けられたが、蔿子馮は寝丘のみを拝領した。なお、蔿子馮もまた、後に令尹として名を馳せた。
 
のちに楚が乱れたとき、寝丘はあまりにも土地が痩せていたために誰かも羨ましがられることがなく孫叔敖の一族は常に政争の外にいた。また楚が[[呉 (春秋)|呉]]に攻められて滅亡寸前になったときも、寝丘は土地の名前が不吉であったために呉軍の侵略を受けることがなかった。そのため孫叔敖の子孫は大いに栄え、後世に[[孫氏]]と称しという
 
== 参考文献 ==