「千葉自胤」の版間の差分

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東常縁は、[[東庄町|東庄]]の近い[[下総国|下総]][[匝瑳郡]]へ逃れ体制を立て直し、2月7日に匝瑳郡の惣社老尾神社で戦勝祈願をした後馬加城(現在の千葉市[[花見川区]]幕張町)を攻め落として、6月12日に[[馬加康胤]]の子[[馬加胤持|胤持]]を、11月1日には、[[上総国]]八幡(現在の[[市原市]]八幡)の村田川にまで逃れた馬加康胤を討ち取り、[[馬加氏]]を滅ぼした。
 
一方実胤と自胤は武蔵国に逃れ、兄実胤は石浜(現在の[[台東区]]橋場)城主、自胤は[[赤塚城|赤塚]] (現在の[[板橋区]]赤塚)城主となり、康正3年([[1457年]])4月には外戚である[[扇谷上杉家]]の家宰の[[太田道灌]]が[[江戸城]]を築城する等、古河公方側に圧力をかけ続けたが、自胤らは確たる所領を持たないため経済的にはひっ迫し、下総への帰還も思うに任せない状態であった。その後兄実胤が隠遁したため自胤が石浜城主となり幕府から認められた千葉氏当主となった。だが実際には、下総に於いては印東庄岩橋村(現在の[[酒々井町]]岩橋)の領主[[岩橋輔胤]]らは[[佐倉城#本佐倉城|本佐倉城]]を築城するなど反抗を続け、その子[[千葉孝胤|孝胤]]は千葉氏当主を自称し、幕府と対立していた足利成氏も孝胤に頼らざるを得なかったためこれを認め、自胤の下総帰還も叶わなかった。
 
なお東常縁は、[[応仁の乱]]で所領である[[美濃国]]郡上を[[斎藤妙椿]]に奪われはしたが、10首の和歌をもって返還が叶い[[文明 (元号)|文明]]元年([[1469年]])4月に、子東縁数を下総に残して帰京している。