「赤穂神社」の版間の差分

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== 歴史 ==
[[飛鳥時代]]よりの[[藤原氏]]の氏神であり、[[平城京|平城遷都]]に伴いこの地に遷座したと伝わる<ref name="yuisho">[[南都鏡神社|鏡神社]]小誌</ref>。熟稲を[[神籬]]に懸け、「赤丹穂に聞食し給へ」と申したことより、赤穂の社と呼ばれるようになったという<ref name="yuisho" />。
もとは「桜田」とよばれる一帯で、桜の名所としても知られ数百坪程の社地があったという。
 
もとは数百坪程の社地があったといわれ、明井町([[閼伽井庵|閼伽井町]]か)の通りに大鳥居があり、桜の名所である神領も所持していた<ref name="yuisho" />。後年田になり、一帯が「桜田」とよばれた<ref name="yuisho" />。
 
[[明治維新]]を機に荒廃し、200戸近い家々・禰宜の大半が離散し築地塀のみが虚しく残ったといい、[[堀辰雄]]らが哀惜の詩文を残したとされる。これを嘆いた地元の有志によって復興が進められ、天満宮と弁才天社を合祀して赤穂神社の左に配し、二社並存という形とした。
 
[[1930年]]([[昭和]]5年)、この近所にある[[新薬師寺]]のそばの[[南都鏡神社|鏡神社]]の別社としてなり現在に至る<ref name="yuisho" />
 
== 伝説 ==
[[聖武天皇]]が眼病の際、[[新薬師寺]]に祈念したところ、夢に「赤穂の神に祈り、社の西南にある清浄水で眼を洗うべし」との神託があった<ref name="yuisho" />。その通りにしたところたちまち快癒し、それにちなみその清水は明井と名付けられ、今は[[閼伽井庵|閼伽井]]と呼ばれる<ref name="yuisho" />。
 
== 交通アクセス ==
* [[近鉄奈良駅]]から[[奈良交通]]バス「中循環」で「破石町」下車東へ徒歩5分
* JR[[奈良駅]]から奈良交通バス「市内循環」又は「中循環」で「破石町」下車東へ徒歩5分
 
== 出典 ==
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== 関連項目 ==