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| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
| 諡号 = 文忠公<ref>(『続日本紀』)</ref>
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[正三位|正三位行]]、[[参議]][[贈位|贈]][[正一位]]、[[太政大臣]]
| 主君 = [[文武天皇]] → [[元明天皇|{{color|#FC4E6B|元明天皇}}]] → [[元正天皇|{{color|#FC4E6B|元正天皇}}]] → [[聖武天皇]]
| 氏族 = [[藤原氏|藤原]][[朝臣]]([[藤原北家]])
| 父母 = 父:[[藤原不比等]]、母:[[蘇我娼子]]([[蘇我連子]]の娘)
| 兄弟 = [[藤原武智麻呂|武智麻呂]]、'''房前'''、[[藤原宮子|宮子]]、[[藤原宇合|宇合]]、[[藤原麻呂|麻呂]]、[[藤原長娥子|長娥子]]、[[光明皇后|光明子]]、[[藤原多比能|多比能]]、[[大伴古慈斐]]室
| 妻 = [[正室]]:'''[[牟漏女王]]([[美努王]]の娘)'''、[[春日倉老]]の女、[[片野氏|片野]][[朝臣]]の女、阿波采女、素性不詳
| 子 = [[藤原鳥養|鳥養]]、[[藤原永手|永手]]、'''[[藤原真楯|真楯(八束)]]'''、[[藤原清河]]、[[藤原魚名]]、[[藤原御楯|御楯(千尋)]]、[[藤原楓麻呂]]、北殿、[[藤原豊成]]室、[[藤原宇比良古|宇比良古(袁比良)]]
| 特記事項 = [[藤原北家]]祖。
}}
'''藤原 房前'''(ふじわら の ふささき)は、[[飛鳥時代]]から[[奈良時代]]前期にかけての[[貴族]]。[[藤原不比等]]の男。[[官位]]は[[正三位|正三位行]][[参議]]。[[贈位|贈]][[正一位]][[太政大臣]]。
 
__TOC__{{-}}
== 生涯経歴 ==
政治的力量は[[藤原不比等]]の息子達の間では随一であり、[[大宝 (日本)|大宝]]([[703年]])には20代前半にして、[[大宝律令|律令]]施行後初めて[[巡察使]]となり、[[東海道]]の行政監察を行った。[[慶雲]]2年([[705年]])[[正六位|正六位下]]から二階昇進し、一歳年上の兄の[[藤原武智麻呂|武智麻呂]]と同時に[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]する。
[[藤原北家]]の始祖で[[万葉集|万葉]]には藤原北卿とあり、[[大伴旅人]]への答歌等が見られる。政治的力量は不比等の息子達の間では随一であり、[[大宝 (日本)|大宝]]([[703年]])には20代前半にして、[[大宝律令|律令]]施行後初めて[[巡察使]]となり、[[東海道]]の行政監察を行った。その後も兄[[藤原武智麻呂|武智麻呂]]と同時に昇進していたが、[[元明天皇|元明]]朝末期から[[元正天皇|元正]]朝初期にかけての高官の[[崩御#薨去|薨去]]([[穂積親王]]・[[大伴安麿]]・[[石上麻呂]]・[[巨勢麻呂]])を受けて、[[霊亀]]3年([[717年]])に武智麻呂に先んじて[[参議]]となった。これは、参議以上の[[議政官]]は各豪族から1名ずつという当時の慣習を破っての昇進でもあった(房前の昇進により、[[右大臣]]である不比等を加えて、藤原氏の公卿は2人となった<ref>このため、不比等の嫡男を兄の武智麻呂ではなく房前とする学説が出されたこともあるが、これに対して各豪族から1名ずつという慣習が守られていたからこそ、嫡男の武智麻呂が父の生存中は議政官には昇進できなかったとする意見や房前を直前に[[崩御#薨去|薨去]]した巨勢麻呂の後任と考えて、当時「東国問題」担当の議政官の枠が存在していたとする説などの反論が出されている。</ref>)。[[元明天皇|元明上皇]]が死の床で祖父・[[藤原鎌足|鎌足]]以来の[[内臣]]に任じて、[[皇太子]][[聖武天皇|首皇子]]の後見役を託したのもその才能を見越しての事であった。なお、当時、内臣は正式な役職ではなく、[[元正天皇]]が首皇子に譲位した時点で任を解かれたとする意見もある。
 
[[藤原北家和銅]]の始祖で4年([[万葉集|万葉711年]]には藤原北卿)再び武智麻呂あり同時に昇進し、[[大伴旅人従五位|従五位上]]への答歌等が見られとなる。政治的力量は不比等息子達の間で随一であり武智麻呂が先んじて昇進し[[大宝 (日本)|大宝]]和銅8年([[703715年]])正月は20代前半二人が同時昇進た際には[[大宝律令|律令]]施行後初めて[[巡察使]]となり、[[東海道]]の行政監察を行った。その後も兄[[藤原武智麻呂が[[従四位|武智麻呂従四位上]]と同時、房前は従四位下昇進し叙せられていたがる。しかし、[[元明天皇|元明]]朝末期から[[元正天皇|元正]]朝初期にかけての高官の[[崩御#薨去|薨去]]([[穂積親王]]・[[大伴安麿麻呂]]・[[石上麻呂]]・[[巨勢麻呂]])の[[崩御#薨去|薨去]]を受けて、[[霊亀]]3年([[717年]])に房前は武智麻呂に先んじて[[参議]]に任ぜられる。[[右大臣]]・藤原不比等に次いで[[藤原氏]]として同時に二人が議政官に並ぶことにった。り、これは参議以上の[[議政官]]は各有力[[氏]]から1名ずつという当時の[[慣習]]を破っての昇進でもあった(房前の昇進により、[[右大臣]]である不比等を加えて、藤原氏の公卿は2人となった<ref>このため、不比等の嫡男を兄の武智麻呂ではなく房前とする学説が出されたこともあるが、これに対して族から1名ずつという慣習が守られていたからこそ、嫡男の武智麻呂が父の生存中は議政官には昇進できなかったとする意見や房前を直前に[[崩御#薨去|薨去]]した巨勢麻呂の後任と考えみなして、当時「東国問題」担当の議政官枠が存在していたとする説などの反論が出されている。</ref>)。[[元明天皇|元明上皇]]が死の床で祖父・[[藤原鎌足|鎌足]]以来の[[内臣]]に任じて、[[皇太子]][[聖武天皇|首皇子]]の後見役を託したのもその才能を見越しての事であった。なお、当時、内臣は正式な役職ではなく、[[元正天皇]]が首皇子に譲位した時点で任を解かれたとする意見もある。
甥の聖武天皇即位後、[[天平]]元年([[729年]])に[[皇親]]勢力の巨頭で政敵であった[[長屋王]]を失脚させ([[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]])、[[藤原四兄弟#藤原四子政権|藤原四子政権]]の中心人物として、[[藤原四兄弟|他の兄弟]]とともに政権を主導した。その後、長兄である武智麻呂(正二位・[[左大臣]])との兼ね合いから、正式な位階・役職としては正三位・参議が極官のまま、他の兄弟に先んじて[[天然痘]]に倒れた。
 
[[養老]]4年([[720年]])8月に[[太政官]]の首班であった父の藤原不比等が薨去。翌養老5年([[721年]])正月に武智麻呂・房前兄弟は[[従三位]]に昇進するが、武智麻呂は参議を経ずに[[中納言]]に任官し、太政官の席次では武智麻呂が上位となる。しかし、同年10月には[[元明天皇|元明上皇]]が死の床で、右大臣・[[長屋王]]とともに一介の参議であった房前を召し入れて後事を託し<ref>『続日本紀』養老5年10月13日条</ref>、さらに房前を祖父・[[藤原鎌足|鎌足]]以来の[[内臣]]に任じて、[[皇太子]]・首皇子の[[後見]]役を託すなど、元明上皇から非常に厚い信頼を受けていたと見られる。なお当時は、内臣は正式な[[官職]]ではなく、[[元正天皇]]が首皇子に[[譲位]]した時点で任を解かれたとする意見もある。
 
[[神亀]]元年([[724年]])首親王の即位([[聖武天皇]])に伴い、武智麻呂と同時に[[正三位]]に昇叙される。[[天平]]元年([[729年]])[[長屋王#長屋王の変|長屋王の変]]により[[皇親]]勢力の巨頭で政敵であった[[長屋王]]を[[失脚]]させ、藤原四子政権が確立すると、房前は[[藤原四兄弟]]の中心人物として他の兄弟とともに政権を主導した。なお、武智麻呂は長屋王の変の直後に[[大納言]]、天平6年([[734年]])には[[従二位]]・[[右大臣]]と目覚ましい昇進を果たすが、房前は他氏族とのバランスもあり、[[官位]]は正三位・参議に留まる。天平9年([[737年]])4月17日に他の兄弟に先んじて[[天然痘]]に倒れた。[[享年]]57。最終官位は参議[[民部卿]]正三位。
 
房前の子孫である[[藤原北家]]は、藤原四兄弟の子孫[[藤原四家]]の中で最も繁栄した。
 
== 略歴人物 ==
{{節stub}}
『[[万葉集]]』には'''藤原北卿'''とあり、[[大伴旅人]]への答歌等が見られる。
 
== 官歴 ==
注記のないものは『[[六国史]]』による。
* 時期不詳:[[正六位|正六位下]]
* [[大宝 (日本)|大宝]]3年([[703年]]):) 正月2日:[[東海道]][[巡察使]]
* [[慶雲]]2年([[705年]]):) 12月27日:[[従五位|従五位下]](越階)
* 和銅4年([[711年]]):) 4月7日:[[従五位|従五位上]]
* 和銅8年([[715年]]):) 正月10日:[[従四位|従四位下]](越階)
* [[霊亀]]3年([[717年]]):) 10月21日:[[参議]]
* [[養老]]3年([[719年]]):) 正月13日:[[従四位|従四位上]]
* 養老5年([[721年]]):) 正月5日:[[従三位]](越階)。10月24日:[[授刀頭内臣]]
* [[神亀]]元年([[724年]]):) 2月4日:[[正三位]]
* 神亀3年([[728年]]) 日付不詳:[[授刀衛|授刀長官]]、兼[[近江国|近江]][[若狭国|若狭]][[按察使]]<ref name="kb">『公卿補任』</ref>
* [[天平]]元年([[729年]]):) 9月28日:[[中務省|中務卿]]
* 神亀5天平2年([[728730年]]):) 10月1日:[[中衛府|中衛]]大将]]<ref name="kb" />
* 天平4年([[732年]]):) 8月17日:東海道[[東山道]][[節度使]]
* 天平9年([[737年]]) 4月17日:[[崩御#薨去|薨去]](参議[[民部卿]]正三位)。10月7日:[[贈位|贈]][[正一位]][[左大臣]]
* [[天平宝字]]4年([[760年]]):) 8月7日:贈[[太政大臣]]を追贈
 
== 系譜 ==
『[[尊卑分脈]]』による。
* 父:[[藤原不比等]]
* 母:[[蘇我娼子]] - [[蘇我連子]]の娘
 
* [[正室]]:[[牟漏女王]] - [[美努王]]の娘
** 二男:[[藤原永手]]([[714年]] (714- [[771年]])771)
** 三男:[[藤原真楯]](八束)([[715年]] )(715- [[766年]])766) - 子孫は[[摂家]]など輩出。
** 六男:[[藤原御楯]](千尋)(? - [[764年]])764)
** 女子:北殿(? - [[760年]])760) - [[聖武天皇]][[夫人]]
* 妻:[[春日倉老]]の女
 
* 妻:[[春日倉首老]]の女
** [[長男]]:[[藤原鳥養]]
* 妻:[[片野氏|片野]][[朝臣]]の女
 
** 四男:[[藤原清河]](?-779)
* 妻:[[片野氏|片野]][[朝臣]]の女
** 男:[[藤原清河魚名]](?(721-783) - [[779年]])子孫は善勝寺流
** 五男:[[藤原魚名]]([[721年]] - [[783年]]) - 子孫は[[羽林家]]の[[四条家]]など輩出。
 
* 妻:阿波采女
** 七男:[[藤原楓麻呂]]([[723年]] (723- [[776年]])776)
* 生母の子女
 
* 生母未詳
** 女子:[[藤原豊成]]室
** 女子:[[藤原宇比良古]](袁比良)(? - [[762年]])762) - [[藤原仲麻呂]]室、[[尚侍]]
 
== 略歴 ==
* [[大宝 (日本)|大宝]]3年([[703年]]):[[東海道]][[巡察使]]
* [[慶雲]]2年([[705年]]):[[従五位|従五位下]]
* [[和銅]]2年([[709年]]):東海道・[[東山道]]を検察
* 和銅4年([[711年]]):[[従五位|従五位上]]
* 和銅8年([[715年]]):[[従四位|従四位下]]
* [[霊亀]]3年([[717年]]):[[参議]]
* [[養老]]3年([[719年]]):[[従四位|従四位上]]
* 養老5年([[721年]]):[[従三位]]、[[授刀頭]]
* 養老5年10月24日:[[元正天皇]]の内臣に任命
* [[神亀]]元年([[724年]]):[[正三位]]
* 神亀5年([[728年]]):[[中衛府|中衛]]大将
* [[天平]]元年([[729年]]):[[中務省|中務卿]]
* 天平4年([[732年]]):東海道・東山道[[節度使]]
* 天平9年([[737年]])4月17日:[[天然痘]]により[[崩御#薨去|薨去]]
* 天平9年(737年)10月:[[正一位]][[左大臣]]を追贈
* [[天平宝字]]4年([[760年]]):[[太政大臣]]を追贈
 
== 能のなかの房前 ==
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== 参考文献 ==
*野村忠夫『律令国家の諸様相』塙書房 1968
*[[高島正人]]『奈良時代諸氏族の研究』[[吉川弘文館 ]]、1983
*野村忠夫『奈良朝の政治と藤原氏』吉川弘文館 1983
*平山 圭「藤原房前の内臣について」『奈良大学大学院研究年報』5 2000
*[[木本好信]]『藤原四子』[[ミネルヴァ書房 ]]、2013
*木本好信『藤原北家・京家官人の考察』岩田書院、2015 
 
== 関連項目 ==
* [[藤原氏]]
* [[藤原四兄弟]]
* [[藤原北家]]
* [[藤原氏の人物一覧]]
 
{{DEFAULTSORT:ふしわら の ふささき}}