「広島原爆で被爆したアメリカ人」の版間の差分

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| video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=1DPerMHYT58 被爆米兵のメッセージ A hidden story of the Hiroshima a-bomb] - 広島西ロータリークラブ。元映像は[[中国放送]]が作成、広島西RCが許可を得てYOUTUBEにアップロードしている<ref>{{cite web|url=http://www.hwrc.jp/index.cgi?sessid=&YENO=23&GRPCD=01&CATEGORYCD=05&DATNO=1106|title=世界に伝える平和への思い|publisher=広島西ロータリークラブ |accessdate=2016-01-23}}</ref>。
}}
一方で日本側においては、相生橋のアメリカ人捕虜を多くの人が見ていたことから彼らの存在は明ら早くであら知られており、そしていろいろな情報・噂が錯綜し、捕虜の全体人数の把握に影響を及ぼした。その中で、マスコミによるスクープ、元[[広島女学院大学]]教授[[宇吹暁]]や地元歴史研究家[[森重昭]]らの尽力、そしてB-24ロンサム・レディー号機長トーマス・カートライト少尉の証言によって解明されていき、直接被爆者12人を断定した<ref name="HoroshimaPOW-J" /><ref name="hibaku-amerikahei-horyo" />。以下に現在分かっている情報で大まかな沿革を記載する
アメリカ政府の見解は戦後しばらくの間「被爆したアメリカ人はいない」というものであった。ロンサム・レディー号のカートライトは生存していたため、被爆した捕虜の存在はある程度はわかっていたはずであった。アメリカ側はその遺族に対し、終戦直後は「戦闘中日本上空で行方不明」と通達、翌1946年その中の何人かに「8月6日捕虜として日本に拘留中、戦死した」と[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]][[ダグラス・マッカーサー]]がお悔やみ状を送っている<ref name="HoroshimaPOW-J" /><ref name="hibaku-amerikahei-horyo" /><ref name="hpm200410">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=25721|title=ヒロシマの記録2004 10月|publisher=ヒロシマピースメディア |accessdate=2016-01-23}}</ref>。1983年初めて公的に被爆死した10人を認めることになるが、これ以外はアメリカ政府は認めていなかった<ref name="chugoku19970728" /><ref name="hibaku-amerikahei-horyo" />。2016年、[[バラク・オバマの広島訪問|バラク・オバマ大統領の広島訪問]]時の演説で"a dozen Americans held prisoner(捕虜となっていた十数人の米国人<ref name="hpm60080">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=60080|title=広島でのオバマ米大統領の演説|publisher=ヒロシマピースメディア |date=2016-05-30|accessdate=2016-06-03}}</ref>)"に言及し<ref name="hpm60082">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=60082|title=Speech by President Obama and Prime Minister Abe of Japan at Hiroshima Peace Memorial|language=英語|publisher=ヒロシマピースメディア |date=2016-05-30|accessdate=2016-06-03}}</ref>、結果的にアメリカ政府は公的に10人以上いたことを認めたことになった。
 
一方でアメリカ政府の見解は戦後しばらくの間「被爆したアメリカ人はいない」というものであった。ロンサム・レディー号のカートライトは生存していたため、被爆した捕虜の存在はある程度はわかっていたはずであった。アメリカ側はその遺族に対し、終戦直後は「戦闘中日本上空で行方不明」と通達、翌1946年その中の何人かに「8月6日捕虜として日本に拘留中、戦死した」と[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]][[ダグラス・マッカーサー]]がお悔やみ状を送っている<ref name="HoroshimaPOW-J" /><ref name="hibaku-amerikahei-horyo" /><ref name="hpm200410">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=25721|title=ヒロシマの記録2004 10月|publisher=ヒロシマピースメディア |accessdate=2016-01-23}}</ref>。1983年初めて公的に被爆死した10人を認めることになるが、これ以外はアメリカ政府は認めていなかった<ref name="chugoku19970728" /><ref name="hibaku-amerikahei-horyo" />。2016年、[[バラク・オバマの広島訪問|バラク・オバマ大統領の広島訪問]]時の演説で"a dozen Americans held prisoner(捕虜となっていた十数人の米国人<ref name="hpm60080">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=60080|title=広島でのオバマ米大統領の演説|publisher=ヒロシマピースメディア |date=2016-05-30|accessdate=2016-06-03}}</ref>)"に言及し<ref name="hpm60082">{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=60082|title=Speech by President Obama and Prime Minister Abe of Japan at Hiroshima Peace Memorial|language=英語|publisher=ヒロシマピースメディア |date=2016-05-30|accessdate=2016-06-03}}</ref>、結果的にアメリカ政府は公的に10人以上いたことを認めたことになった。
一方で日本側においては、相生橋の捕虜を多くの人が見ていたことから彼らの存在は明らかであり、そしていろいろな情報・噂が錯綜し、捕虜の全体人数の把握に影響を及ぼした。その中で、マスコミによるスクープ、元[[広島女学院大学]]教授[[宇吹暁]]や地元歴史研究家[[森重昭]]らの尽力、そしてカートライトの証言によって解明されていき、直接被爆者12人を断定した<ref name="HoroshimaPOW-J" /><ref name="hibaku-amerikahei-horyo" />。以下に現在分かっている情報で大まかな沿革を記載する。
 
以下に現在分かっている情報で大まかな沿革を記載する。
* 1945年
** 8月6日 : 広島市への原子爆弾投下