「浅井畷の戦い」の版間の差分

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'''浅井畷の戦い'''(あさいなわてのたたかい)は、[[慶長]]5年([[1600年]])に起こった北陸地方における[[前田利長]](東軍)と[[丹羽長重]](中立西軍)の戦い。
 
{{Battlebox|
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|date = 1600年
|place = 北陸地方
|result=中立西軍の戦術的勝利
|combatant1 = 東軍
|combatant2 = 中立西
|commander1 = [[前田利長]][[File:Japanese crest Umebachi.svg|20px]]
|commander2 = [[丹羽長重]]
|strength1 = 2万5000名
|strength2 = 3000名
|casualties1 = 数千人戦死 不明
|casualties2 = 微々不明
|}}
 
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しかし、撤退するためには問題があった。前田利長は加賀南部に攻め入るに当たって、小松城を攻め落とせず、わずかな押さえの兵を残して大聖寺に進軍していたのである。このため、撤退途中に丹羽軍が前田軍を追撃する可能性があったのである。利長はできるだけ隠密裏に撤退を行なおうとしたが、やはり2万5000人もの大軍勢の動きを隠密裏にすることなどは不可能だった。丹羽長重は前田軍の金沢撤退を知って、軍勢を率いて小松城から出撃した。
 
小松城の周囲には泥沼や深田が広がっている。その中を、幾筋かの畷(縄手)が走っている。畷とは縄のように細い筋になっている道のことであるが、小松城の東方に浅井畷という畷があった。丹羽家臣達はこの浅井畷で兵を率いて前田軍を待ち伏せした。8月9日、前田軍が浅井畷を通ったとき、待ち伏せしていた[[大谷元秀江口正吉]]、江口・坂井ら丹羽軍が攻撃した。畷のために道幅が狭く、大軍としての威力を発揮することができない。このため、前田軍は被害を受けたが、前田軍の武将・[[長連龍]]や[[山崎長徳]]らの活躍もあって丹羽軍を撃退し、何とか金沢に撤退することができたのである。なお、浅井畷古戦場は、1941年に石川県指定史跡となっている<ref>{{Cite web |author= |date=2010-09-21 |url=http://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/siseki/ken1-3.html |title=平時忠卿及びその一族の墳・浅井畷古戦場 |publisher=石川県 |accessdate=2013-04-01}}</ref>。
 
== 影響 ==
この戦いは、北陸における「関ヶ原の戦い」であった。8月末、利長は家康の命令を受けて[[美濃国|美濃]]に進出するべく再び行動を起こす。丹羽長重は利長に降伏を申し入れたが、遂に関ヶ原本戦には間に合わなかった。更にこの時、先の戦いには参加していた利長の弟の[[前田利政]]は、居城である[[七尾城]]に篭ったまま動かず、東軍には加わらなかった(利政はかねてより西軍への参加を主張していたとも言われる)。
 
しかし、北陸における西軍の奮戦は報われなかった。9月15日の本戦で西軍が壊滅したことから、越前・加賀南部の諸大名は東軍に降伏を余儀なくされ、丹羽長重や前田利政をはじめ多くの諸大名は、家康によって改易されてしまったのである。
 
== 浅井畷の戦いを扱った作品 ==
*簑輪諒うつろ屋軍師(学研パブリッシング、2014年)
 
== 脚注 ==
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== 参考論文 ==
*池田公一大谷刑部と前田利長―北国計略と謀書の作成―」―」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年)
*見瀬和雄『利家・利長・利常―前田三代の人と政治―』(北國新聞社、2002、2002年)
*見瀬和雄関ヶ原合戦前夜の北陸と前田利長―慶長五年九月五日付前田利長書状―」―」(佐藤孝之編『古文書の語る地方史』天野出版工房、2010、2010年)
 
== 外部リンク ==