「正親町天皇」の版間の差分

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== 経歴 ==
=== 即位 ===
弘治3年([[1557年]])、[[後奈良天皇]]の[[崩御]]に伴って[[践祚]]した。当時、[[天皇]]や[[公家]]達はすでに貧窮しており、正親町天皇も[[戦国大名]]・[[毛利元就]]の献上金があるまで、3年間[[即位の礼]]を挙げられなかった<ref>シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』p137頁(第4章「非力で女性的な天皇像」、9「ソフトで柔弱な君主たち」)。</ref>{{Efn|元就は即位料・御服費用として総額2,059貫400文を進献し<ref>[[宮本義己]]「戦国大名毛利氏の和平政策―芸・雲和平の成立をめぐって―」(『日本歴史』367号、1978年)</ref>、正親町天皇は、元就に褒美として[[従五位|従五位下]]・[[馬寮|右馬頭]]という[[位階]]を授け、皇室の紋章である[[菊]]と[[桐]]の模様を毛利家の[[家紋]]に付け足すことを許可した<ref>シロニー、p137(第4章9)。さらに本書は以下を出典としている。<br />1. 永井ほか「武家政権はなぜ天皇を立て続けたのか」『月刊現代』1992年2月号、p278。</ref>。また後年、元就後裔の[[毛利元徳|元徳]]を藩主とする長州藩が帝国政府を樹立したのちの[[1908年]](明治41年)、この功績により元就に[[正一位]]が贈位された。}}。
弘治3年([[1557年]])、[[後奈良天皇]]の[[崩御]]に伴って[[践祚]]した。当時、[[天皇]]や[[公家]]達はすでに貧窮しており、
正親町天皇も[[戦国大名]]・[[毛利元就]]の献上金があるまで、3年間[[即位の礼]]を挙げられなかった<ref>シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』p137頁(第4章「非力で女性的な天皇像」、9「ソフトで柔弱な君主たち」)。</ref>{{Efn|元就は即位料・御服費用として総額2,059貫400文を進献し<ref>[[宮本義己]]「戦国大名毛利氏の和平政策―芸・雲和平の成立をめぐって―」(『日本歴史』367号、1978年)</ref>、正親町天皇は、元就に褒美として[[従五位|従五位下]]・[[馬寮|右馬頭]]という[[位階]]を授け、皇室の紋章である[[菊]]と[[桐]]の模様を毛利家の[[家紋]]に付け足すことを許可した<ref>シロニー、p137(第4章9)。さらに本書は以下を出典としている。<br />1. 永井ほか「武家政権はなぜ天皇を立て続けたのか」『月刊現代』1992年2月号、p278。</ref>。また後年、元就後裔の[[毛利元徳|元徳]]を藩主とする長州藩が帝国政府を樹立したのちの[[1908年]](明治41年)、この功績により元就に[[正一位]]が贈位された。}}。
 
さらに、[[本願寺]]法主・[[顕如]]も莫大な献金を行っており、天皇から[[門跡]]の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。[[永禄]]8年([[1565年]])には、キリスト教[[宣教師]]の京都追放を命じた。