「日給簡」の版間の差分

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記録上の初見は憲平親王(後の冷泉天皇)の立太子時(『九暦』天暦4年7月23日条)であるが、女官に対する[[女房簡]]に関する記述は『[[寛平御遺誡]]』に見られるため、[[宇多天皇]]の時代には存在したとされている。
 
日給簡は[[木工寮]]が製作し、[[清涼殿]]の「殿上の間」に設置されていた。長さ5尺3寸、上辺幅8寸、下辺幅7寸、厚さ6分の木製の簡で、上中下の3段構成になっており、上から四位・五位・六位(蔵人以外で昇殿を許された者)の官人の官位氏名が書きこまれていた。午前(3月から8月は辰刻、9月から翌2月までは巳刻)に殿上の間に掲げられ、午後(未二刻、後に未三刻)に絹の袋に入れて普段は簡の下に置かれている唐櫃に納められる。唐櫃に収められる前に出仕の手続をしなければ不参(出仕しなかった)とみなされた(ただし、早朝の業務に出ていたことが確認できる者は、簡が出される前に帰宅した場合でも特例で出仕扱いされた。また、公務による出張者も当然出仕扱いされた)。
 
出仕した者は[[放紙]](はなちがみ)と呼ばれる紙切れを自分の氏名の下に貼り付け、そこに日付を書き、[[宿直]]担当者は更に“夕”の文字、[[假]]を届け出ていた者は“仮”の文字、出仕しなかった者は“不”の字を加えた(辰刻と未刻が上日と上夜(宿直)の切り替えの基準となる)。翌月の1日に[[蔵人]]が日給簡に貼られた放紙を元にして集計した数字を[[天皇]]に報告する[[月奏]]の儀式が行われた。