「国鉄3070形蒸気機関車」の版間の差分
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元は、[[汽車製造]]で[[足尾鉄道]]が[[1911年]](明治44年)に4両([[製造番号]]76 - 79)と[[1913年]](大正2年)製に2両(製造番号117, 118)を製造した、[[車軸配置]]2-6-2(1C1)で2気筒単式の37t級飽和式機関車である。足尾鉄道では、最初の4両の完成が遅れたため急遽国鉄に払下げを願い出て[[国鉄1300形蒸気機関車|機関車]]1両を確保し1としたため'''2 - 7'''となった。
足尾鉄道は[[1913年]](大正2年<!--もし「明治45年」であるとすれば、1912年となる。-->)に鉄道院に貸し渡され、1と6, 7に国有鉄道の形式番号が与えられた。1は[[国鉄1300形蒸気機関車|1295形]](1295)、6, 7は'''3070形'''('''3070, 3071''')と[[改番]]された。[[1918年]](大正7年)には足尾鉄道が正式に国有化され、2 - 5も国有鉄道籍に編入された。その際、2 - 5は6, 7と煙管の直径と数に違いがあったため、いったん'''3035形'''('''3035 - 3038''')としたが、3ヶ月後に修正して全車を3070形に編入し、'''3072 - 3075'''とした。
本形式は私鉄時代国鉄時代を通じて桐生に配置され、曲線の多い足尾線用として使用されたが、1934年(昭和9年)2月より [[国鉄C12形蒸気機関車|C12形]]が使用されることになり小山に転じて[[入換 (鉄道)|入換]]用に使用された。[[太平洋戦争]]末期には、3073は[[新鶴見機関区|新鶴見]]から武蔵五日市に、3075は白河から田端に、残りの4両は浜川崎に、浜川崎配置のうち3072は、さらに[[東京総合車両センター|大井工場]]へ転じた。日本国有鉄道発足後は少数形式淘汰の方針により、[[1950年]](昭和25年)に全車が[[廃車 (鉄道)|廃車]]された。
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