「ギャロップダイナ」の版間の差分

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6歳となった1986年からは重賞に顔を出しはじめ、2月のダート重賞・[[フェブラリーステークス|フェブラリーハンデキャップ]]で2着。春には芝の重賞・[[京王杯スプリングカップ]]でも3着となり、GI・安田記念で5着と健闘した<ref name="yushun8905" />。充実期に入ったとみた陣営は、夏に得意のダートで態勢を整えたのち、順調ならば年末の有馬記念を最大目標とする計画を立てた<ref name="yushun8512" />。
 
安田記念の次走に出走した札幌日経賞ではスタートでバランスを崩して騎手の[[東信二]]が落馬。そのまま馬群について走ったギャロップダイナは、最終コーナーで[[脚質#逃げ|逃げ馬]]に並びかけると、デリンジャーアモンに1馬身半の差をつけ、レコードを0.2秒上回る推定1分49秒9というタイムでゴールを通過<ref name="yushun8905" />。落馬失格のため、正式な結果は「記録無し競走中止」ではあったが、「カラ馬が1着」と話題をまいた<ref name="yushun8905" />。続く道新杯では改めてレコードタイムで走破しての7勝目を挙げると、続く2戦を連続で2着とした。その後、矢野はギャロップダイナを自己条件戦の府中ステークスへ回すことを考えていたが、社台ファーム総帥・[[吉田善哉]]が急遽天皇賞(秋)への出走を決定<ref name="yushun8905" />。「チャンスさえ与えれば花開く可能性がある。それがノーザンテーストの血だ」というのがその言であった<ref name="yushun8905" />。一方、この競走で手綱をとる[[根本康広]]によれば、「シンボリがルドルフを出してきた。それならダイナも何か出そう」という事情であったという<ref name="yushun9112">『優駿』1991年12月号、p.59</ref>。
 
==== 波乱の天皇賞(秋) ====