「若松勉」の版間の差分

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[[1970年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1970年のドラフト]]3位で[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトアトムズ]]に入団。背番号は「'''57'''」。指名の第一報は電話で球団のスカウトから伝えられたが、その声が所属チームの監督そっくりだったらしく、若松は「監督、何を冗談言ってるのですか」と信じなかったという(本人は社会人入りして5年経過しても声が掛からなかったこともあって、プロ入りはないと決め込んでいた)<ref name="special-24" />。若松は北海道から東京に夫人と共に上京することになり、入団発表でも夫人を同伴している。
 
入団後は、プロ入り前から若松の素質に目をつけていた中西コーチとのマンツーマントレーニングで猛練習を積み重ねた<ref>上村祐作「[http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/baseball111007_1_2.html 若松勉 北海道が生んだ偉大なる大打者]」(OCNスポーツ野球コラム)。</ref>。中西のあまりの熱の入れように、三原がなぜお前はそこまで若松に入れ込むのかと尋ねると、中西は「一生懸命やってるから、最後までついて来て人一倍練習やってるし、教えないわけにはいかない」と答えたという<ref>『1990ヤクルトスワローズファンブック』(ヤクルト球団、1990年)66頁</ref>。その猛練習の甲斐あって、1年目の[[1971年]]から左翼手のレギュラーに定着。規定打席不足ながら112試合に出場して規定打席未満(305打席)ながら打率3割.303を記録した(同年のセ・リーグの3割打者は[[長嶋茂雄]]のみ)。同年オフに[[野球の背番号|背番号]]を「'''1'''」に変更。
 
2年目の[[1972年]]には打率.329、リーグ2位の20盗塁という成績を残して[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]を獲得し、リーグを代表する外野手となる。1973年もリーグ2位の打率.313を記録する。1972年と1973年は2年連続でリーグで打率3割以上が2人だけだったが、どちらの年も3割を記録したのは若松のみだった。1974年は全試合出場を果たし、リーグ5位の打率.312で3年連続で3割を残した。
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引退後は[[1990年]]から[[1992年]]まで[[テレビ朝日]]・[[文化放送]]解説者と[[日刊スポーツ]]評論家。[[1993年]]一軍打撃コーチとしてヤクルトに復活し、[[1995年]]から[[1996年]]まで二軍監督、[[1997年]]から[[1998年]]まで再び一軍打撃コーチ、[[1999年]]から野村の後を受けて監督に就任し[[2005年]]まで務めた。
 
監督就任にあたってはスローガンに「データ+スピード&パワー」を掲げた。これは選手の地力(スピードとパワー)を向上させることで、「ID野球」を主唱した前監督野村時代のようなデータ重視の野球だけではなく、根本からチーム力を底上げしようと図ったものであった。若松は在任中にこの目標を完全に達成することはできなかったが、日本一に加えて球団史上初の4年連続Aクラス入りを果たした。野手の起用においては、生え抜き組・移籍組を問わずベテラン選手を多く起用する傾向があったものの、一方で岩村明憲・青木宣親らのように若松の下で大きく成長した若手選手もおり、新旧交代に著しい支障をきたすことは無かった。投手の起用に関しては率直に自らの本分ではないことを認め、おおむね投手コーチの[[小谷正勝]]・[[伊東昭光]]に一任していた。また、現役引退後は球団広報を務めていた[[杉村繁]]の指導者としての資質を買って打撃コーチ補佐に抜擢している(のち打撃コーチに昇格)
 
[[2001年]]は[[川崎憲次郎]]がFAで移籍、[[ジェイソン・ハッカミー]]が退団、[[伊藤智仁]]・[[山部太]]が故障離脱と先発投手陣に深刻な不安を抱えた状態で開幕を迎え、苦戦が予想されたが、ベテラン[[古田敦也]]がチームを牽引し、主砲[[ロベルト・ペタジーニ]]を筆頭とする強力打線が猛威を振るい、懸念されていた投手陣も、2年目の[[藤井秀悟]]が14勝をあげて最多勝を獲得し、テスト入団の[[入来智]]・[[前田浩継]]や8月に加入した[[ケビン・ホッジス]]らが奮闘して穴を埋め、チーム防御率3.41とリーグトップの数字を残して戦前の不安を払拭し、終盤で巨人を追い抜いてリーグ優勝を果たした。[[2001年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]と対戦し、第1戦の[[石井一久]]の好投、古田の攻守にわたる活躍により、4勝1敗で日本一に輝いた。