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[[画像ファイル:Adolph-Douai.jpg|thumb|right|200px|アドルフ・ドゥエイ]]
 
'''アドルフ・ドゥエイ'''(Carl Adolph Douai、[[1819年]][[2月22日]] - [[1888年]][[1月21日]])は、著名なドイツ系テキサス人<ref>http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/fdo30 Texas State Historical Associationのサイト内のドゥエイに関する記事。</ref>で、ジャーナリスト、著述家、新聞編集者で、社会改革家でもあった。ドイツでは、ザクセン・ゴータ・アルテンブルクの[[労働運動]]の指導者で、アメリカに渡ってからは、[[奴隷制度]]廃止論者としても活躍。これに関する資料は、現在[[テキサス大学]]に収蔵されている。彼は[[教育者]]としては、アメリカで最初に[[幼稚園]]を作った一人でもある。
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ドゥエイは、[[1848年革命]]に参加し、彼の新聞にも革命派への支持をたびたび記事にしている。
 
== 家族 ==
彼は、教育一家の出で、教師だったカール・エドゥアルト・デュエイ(1793年 - ?)とエレオノーラ・ドゥエイ(1797年 - ?)の間の子どもである。
 
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== 生涯 ==
=== ドイツの革命 ===
ドゥエイは、4歳で既に父親から読み書き計算を教えられた。彼は[[アルテンブルク]]のギムナジウムに学び、その後奨学金を得て、[[ライプツィヒ大学]]で、神学、哲学、と歴史を学んだ。1841年、彼は数年にわたる遊学の旅に出、[[バルト海]]を渡って、[[エストニア]]に赴き、そこで私講師として働いた。この当時、彼は[[ドルパト大学]]でヘーゲル哲学に関する論文で、文献学の博士の学位を取得している。彼はもっぱら独学で学んできたが、かなり知識は偏りがあり、世界文学や自然科学、博物学についてはほとんど知識は皆無で、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代]]』の中の「教育州」についてをよく読んでいたくらいにとどまった。教育思想家では、[[フリードリッヒ・ディースターヴェーク]]に傾倒していた。
 
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彼は、ドイツの[[1848年革命]]前夜の運動に参加し、様々な雑誌に記事を書き、革命の目標に賛同を表明し、ザクセン・アルテンブルク広告の共和派の指導者の一人となった。彼の1851年の著作『社会主義のABC』(''Das ABC des Sozialismus'')で彼は、[[フリードリヒ・フレーベル]](1782年 - 1852年) の教育的見解に強く依拠した立場をとった。その革命的で社会主義的な係わりからドゥエイは、少なくとも5回にわたり裁判にかけられ、また2度もの逮捕を経験している。その結果、1年間の懲役と職業の禁止を宣告されている。釈放後、彼は多数の知識人と自由思想家とともにアメリカのテキサスに移住した。これについては、フォーティエイターズ([[:en:Forty-Eighters]])を参考のこと。
 
=== アメリカでジャーナリスト、教育者として ===
ドゥエイは、1852年3月に[[テキサス州]]に到着した。まずニコラス・ツィンク(1812年 - 1887年)のテキサス州ケンダール郡のシスターデールのラテン・セツルメントに滞在、その後隣接したコマル郡のニュー・ブラウンフェルスに移り、そこで間もなく学校を設立した。けれど、翌1853年彼はテキサス州サン・アントニオに移住し、そこでサン・アントニオ新聞の編集者になった。
 
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ドゥエイは、新聞でこれまで通り奴隷制に対する反対キャンペーンを継続し、ついに1855年2月9日の版でテキサス州の西部に自由な独自の国家の設立を提案した。同年、彼の新聞の奴隷制反対の主張に反感を持つ暴徒たちの手によって新聞社の事務所が徹底的に破壊された。その後、1956年には収入がさらに激減し、彼は自分の持ち分をグスタフ・シュライヒャー(1823年 - 1879年)に売却してテキサス州を去ることになった。
 
=== ボストンの知識人たちの中で ===
ドゥエイは北部の[[マサチューセッツ州]]の[[ボストン]]に移り、ここで「幸せな4年間」を過ごす。現地の進歩主義協会やドイツ系移民の体操協会にも参加し、ニューイングランドの社会にも溶け込もうとした。この時期、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]の生誕100年祭を催したり、1859年5月6日亡くなった[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]の追悼祭を催したりしている。
 
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彼はここでもまた学校を設立した。それは1859年のフレーベルのモデルにならったもので、おそらくアメリカ合衆国で最初の誰にでも開かれた[[幼稚園]]とされている。これは彼により設立された労働組合の支援によるものである。但し、[[マルガレーテ・シュルツ]]が、1856年に彼女の自宅で最初の私立の幼稚園を開設している。彼女は、1859年に[[エリザベス・ピーボディ]]と知り合い、彼女にフレーベルの教育思想と幼稚園について指導している。一方、ドゥエイはこの時期、ドイツ系の教員養成大学の設立計画やその他の教育改革に手を染めていて、幼稚園にはあまり時間を割いていなかった<ref>石川道夫「知られざるアドルフ・ドゥエイ」日本ペスタロッチー・フレーベル学会「人間教育の探究」第21号 2009年 p.1-22</ref>。ドゥエイは[[共和党 (アメリカ)|共和党]]に入党し、ドイツ系入植者を共和党に勧誘するため全国を旅していた。
 
=== ニューヨークへ ===
 
しかしながら、彼が公言していた無神論のために反対派反発を買い、1860年にはこの町も再び去ることになる。
彼はニュージャージー州のホボーケンに移り、そこでドイツ系の学校の校長になり、ニューヨークの「デモクラート」紙の主席編集者になる。1866年にはついに[[ニューヨーク]]に移り住み、そこでも幼稚園の開設に向け尽力する。彼はお送り学校を開設し、1871年には幼稚園のハンドブックを執筆、教育の指針となるものを書き記した。これらの学校や幼稚園の校長にして指導者として、彼は常にフレーベル教育学の指導的な理念が実践に反映されるべく努力を重ねた。
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* Paul Mitzenheim: ''Adolf Douai - Vermittler Fröbelscher Ideen nach den USA und Japan'', in: „Friedrich Fröbel in Japan und Deutschland“, Hrsg.: Helmut Heiland und Karl Neumann, Weinheim 1998
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 外部リンク ==
* {{PND|116190566}}
* [http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/fdo30 テキサス人名録] - 英語サイト。
* [http://bibliographie.blogsport.eu/2014/09/09/gerd-hohendorf-1989-reformpaedagogik-und-arbeiterbewegung/ Gerd Hohendorf (1989): Reformpädagogik und Arbeiterbewegung. Oldenburger: Universitätsreden]