「和田京平」の版間の差分

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中学卒業後、アルバイトや板前など職を転々としていたが、1972年に[[全日本プロレス]]が利用していた運送会社のアルバイトとしてリング設営スタッフに参加。当時ディスコにハマっており、プロレス会場でもリング設営中に音楽に合わせて踊っていたところ、それを見ていた[[ジャイアント馬場]]に「動きがいい」と言われ、推薦されてレフェリーとなった。
 
[[ジョー樋口]]や[[マシオ駒]]に師事し、元々持っていた軽快なフットワークを武器にレフェリングを学ぶ。レフェリングデビューは1974年の全日本プロレスの「[[NWA_(プロレス)|NWA]]チャンピオン・シリーズ」。樋口、[[ミスター林]]に次ぐ3番手のレフェリーだったが、19901980代後半の[[ジャンボ鶴田]][[三沢光晴天龍源一郎]]のシングル連以降([[鶴龍対決]])でメインイベントのレフェリーを任されるようになり、師匠の樋口が高齢になったことや、林が[[ジャパン女子プロレス]]に移籍したことなどから、メイン級の試合を本格的に担当するようになる。
 
「グラウンド状態の選手の上を飛び越える」「選手に飛ばされリングから落ちそうになっても、トップロープとセカンドロープをつかんでくるっと一回転して戻ってくる」([[佐山聡|初代タイガーマスク]]が披露していたフィンタ・デ・レギレテ。[[レイ・ミステリオ・ジュニア|レイ・ミステリオ]]の「619」によく似た形)など様々な形で表現される、軽快なフットワークと大きなアクション、正確かつ迅速な判断のレフェリングが評価され、[[プロレス大賞]]でも表彰を受けている。特に、1990年代中盤以降、和田がレフェリーを務める試合において、リングアナの「レフェリー、和田京平」のコールのあとに客が発する「'''キョーヘー!!'''」の大コールが起きるのがお決まりとなっており、全日本プロレスの名物と言える<ref>これは樋口が担当した場合の「ジョー!!」の時代からの流れとも言え、のちにプロレスリングノアのレフリーを務めた[[マイティー井上]](元選手)の「マーイティー!!」にも受け継がれていった。</ref>。さらに、一時期は樋口やレスラーから後に転向した林とともにNWAの公認レフェリーだった時期もある。