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'''河内 一友'''(かわうち かずとも [[1947年]]([[昭和]]22年)[[5月18日]] - )は[[毎日放送]]代表取締役[[会長]]。
 
== 来歴・人物 ==
[[京都府]][[京都市]]出身。[[同志社大学]][[文学部]]社会学科卒業後、[[1971年]](昭和46年)4月に毎日放送入社。同期にはアナウンサーの[[野村啓司]](現・[[フリーアナウンサー|フリー]])、[[平松邦夫]](元・[[大阪市長]])、[[近藤光史]](現・フリー)、元テレビプロデューサーの[[御藤良基]](現・[[光明寺 (尾道市)|光明寺]]住職)がいた。
 
営業・事業畑で進み、[[1993年]]([[平成]]5年)に東京支社テレビ営業第一部長となり、[[1997年]](平成9年)にラジオ営業局長兼業務部長、[[1999年]](平成11年)に事業局長、[[2002年]]([[平成]]14年)に取締役テレビ本部副本部長兼事業局長、[[2003年]](平成15年)に常務取締役テレビ本部長を経て、[[2005年]](平成17年)より常務取締役(営業局・事業局担当)をそれぞれ歴任。
 
[[2007年]](平成19年)55月17日、取締役会で第7代社長[[山本雅弘 (毎日放送)|山本雅弘]]の後任となる社長就任が内定。[[6月27日]]の株主総会終了後の取締役会で毎日放送第8代代表取締役社長に就任した。
 
[[2015年]](平成27年)66月25日に行われる株主総会にて代表取締役会長に就任。
 
近畿情報通信協議会会長も務めている。
 
=== MBS社長 ===
河内に課された任務は、4年後の[[2011年]](平成23年)に迫った地上波テレビのデジタルへの完全移行をつつがなく完了させるとともに、デジタル時代に見合うコンテンツプロバイダとしてのMBSのビジョンを描き直すことだった。
 
==== オーサカキング終了 ====
[[2008年]](平成20年)99月、[[リーマン・ショック]]を契機に世界同時不況が起こる。MBSは特にテレビのスポットCM収入が大きく落ち込む影響を受けた。前年の[[毎日放送千里丘放送センター|千里丘放送センター]]の土地売却で得た利益は地デジ移行に必要な局内や中継局などの設備投資に充てていて余裕がそれほどなかった。このため前任者の山本が打ち出した『スーパーリージョナルステーション』の路線に狂いが生じる。「[[MBS京都プロジェクト]]」は河内が京都市出身ということもあり継続したものの、イベント開催に巨額の経費が掛かる「[[オーサカキング]]」は持ちこたえられなくなり、2008年秋、5年間続けたイベントの終了を決断する。{{main|オーサカキング#2008年夏で終了}}
 
==== スポーツ中継のリストラ ====
リーマンショック後の不景気でスポンサーがかけられる広告費全体も大幅に縮小し、特にMBSが得意とするスポーツイベント中継が影響を受けた。
 
第5代社長[[斎藤守慶]]が就任した[[1985年]](昭和60年)から続けてきた[[甲子園ボウル|パナソニック杯毎日甲子園ボウル]]の放送は、河内就任当年の[[2007年]](平成19年)は地上波全国ネットで深夜の録画放送を行ったが、翌2008年の第63回大会は地上波がMBSと[[キー局]][[TBSテレビ]]以外では放送されず、BS-i(現在の[[BS-TBS]])とCSの[[GAORA]]で完全生中継。そして[[2009年]](平成21年)からは大会を主催する[[毎日新聞社]]の意向で[[NHK BS1]]に移行となり、MBSは放送権を失った。{{main|甲子園ボウル#テレビ放送}}
 
[[選抜高等学校野球大会]]では、山本時代の[[2003年]](平成15年)に地上波テレビでの放送が準決勝・決勝の2日間だけに縮小されていた。ラジオはまだスポンサーが付いていたこともあって全試合生中継を続けていたが、河内は「民放には民放のやり方がある」と述べ、2008年の第80回記念大会をもって全試合放送を打ち切った。2009年の第81回大会からはテレビと同様、準決勝・決勝の2日間だけ生中継を行うことにした。{{main|選抜高等学校野球大会#毎日放送・GAORA|山本雅弘 (毎日放送)#スポーツ中継のリストラ}}
 
[[全国高等学校ラグビーフットボール大会|全国高校ラグビー大会]]でも、河内の就任当年、2007年12月に開幕した[[第87回全国高等学校ラグビーフットボール大会|第87回大会]]からラジオでの放送が全廃された。これによりラジオでは例年[[1月5日]]に行われる[[中央競馬]]の正月開催初日(メイン競走は[[スポーツニッポン]][[京都金杯|賞京都金杯]])を中継できるようになり、『[[サンデー競馬中継 みんなの競馬|新春スペシャル・みんなの競馬]]』を設定して施行者兼スポンサーの[[日本中央競馬会|JRA]]から安定的な広告収入を得られることになった。2011年以降、全国高校ラグビー大会はCS局の系列の[[GAORA]]ではなく[[J SPORTS]]が全試合中継し、地上波はダイジェストのみとなっている。{{main|GOGO競馬サンデー!#イレギュラー放送の可能性|全国高等学校ラグビーフットボール大会#2007年度(第87回)}}
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MBSは国内最大の[[新宗教]]団体、[[創価学会]]とは元来距離を置く方針を取ってきた。テレビでは[[スポットCM]]、[[タイムCM|タイム契約]]共に開局から山本社長時代まで50年近く受け入れたことがなく、ラジオのみで出稿を受け、それも斎藤時代の[[1991年]](平成3年)に全面禁止とした後20年近く途絶えていた。{{main|MBSラジオ#番組編成の特徴|聖教新聞#広告出稿}}
 
しかし、リーマンショック後の収入の落ち込みは激しく、地デジ移行という大きな投資を控えていたMBSも、創価学会だけを名指しで拒否し続ける訳には行かなくなった。河内は段階を踏みながら創価学会との取引を増やしていくことにした。まず2008年4月改編で、[[創価大学]]を運営する[[学校法人創価大学]]を出稿者として認め、続いて2009年4月改編で、ラジオに限って学会([[聖教新聞]]名義含む)提供番組の受け入れを再開した。しかし第6代社長[[柳瀬璋]]が[[2001年]](平成13年)1010月改編でネット受け拒否とし、関西では系列外の[[大阪放送|ラジオ大阪]](OBC)で放送されていた学会提供の[[Japan Radio Network|JRN]]全国ネット番組『[[あなたへモーニングコール]]』は、本来の放送時間の午前4時台に自社制作の『[[モーニングミックス]]』があることからそちらを優先した形となり、本来のJRN加盟局で前番組『[[歌うヘッドライト]]』も放送したMBSには戻らず、引き続きOBCでの[[遅れネット]]による放送となった。{{main|柳瀬璋#『あなたへモーニングコール』ネット拒否|大阪放送#JRN・RFとのネット}}
 
さらに、[[2010年]](平成22年)99月の『[[アッコにおまかせ!]]』を皮切りにTBSやその他JNN各局制作のネットワークセールス番組でかつ制作局と同時ネットの場合に限ってテレビ向けCMを受け入れるようになり、2012年(平成24年)44月改編から自社製作番組へのタイム契約を解禁、同年9月にはスポットCMの出稿も受け入れて学会との取引は全面再開となった。ただし、学会に批判的な発言や取材を例えハプニングであったとしても放送するなど、タブーを設けない対応は現在でも際立っている。{{main|MBSテレビ#備考|報道におけるタブー#鶴タブー}}
 
==== USJ閉鎖、茶屋町への集中 ====
2009年1月7日、河内は年頭記者会見で[[MBSスタジオ in USJ]]を4年後の[[2013年]](平成25年)33月で閉鎖すると発表する。前年1月に[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]の運営会社[[ユー・エス・ジェイ]]との間で借地契約を10年延長したばかりだったが、その理由は千里丘から茶屋町への移転の時とよく似たものだった。こうしてMBSの都心回帰第3段階がスタートする。{{main|MBSスタジオ in USJ#閉鎖へ|山本雅弘 (毎日放送)#千里丘放送センター閉鎖}}{{see also|斎藤守慶#都心回帰へ|柳瀬璋#USJスタジオといい朝8時|毎日放送#USJ内に自社スタジオ}}
[[2010年]](平成22年)[[7月22日]]、河内は定例記者会見の席上茶屋町本社に隣接する貸駐車場になっていた土地を取得したと発表する<ref>[http://www.mbs.jp/kouhou/news/log/100722_04.pdf MBS新館建設計画について] - 毎日放送ホームページ「ちゃやまち広報室」</ref>。2013年9月に完成したMBS茶屋町B館は地上15階・地下1階建てで、大型テレビスタジオ2つを設けることになっている。また地下の車庫には千里丘ミリカセンターから中継車が移動。これにより、ライブラリーなど一部を除き放送関連機材・設備がすべて茶屋町に集結した。{{main|毎日放送#本社|毎日放送千里丘放送センター#中継車は大阪ナンバー}}
 
==== 日本昔ばなしと60周年 ====
MBSが誇る文化遺産『[[まんが日本昔ばなし]]』は、斎藤時代の[[1994年]](平成6年)に新作の制作が取りやめられ、柳瀬時代の[[2001年]](平成13年)には地上波での放送が一旦打ち切られた。山本時代の2005年、将来のDVD化を想定して初期作品の一部について[[デジタルリマスター]]を行い、地上波放送されたが肝心のDVDソフトの発売にはなかなか踏み切れなかった。{{see also|柳瀬璋#まんが日本昔ばなし打ち切り|まんが日本昔ばなし#2005年からのゴールデン枠再開}}
 
河内は、地デジ移行や本社新館建設などで視聴者向けの60周年記念事業を大々的には打てない状況下で、番組開始35周年と創業60周年が重なるタイミングを利用し懸案となっていた『昔ばなし』のDVDソフト発売を決定。[[2011年]](平成23年)11月12日の年頭記者会見の席上、1本4話、全60巻とそれを5巻ずつセットにしたDVD-BOX全12本を年に3回、2年間かけて発売すると発表<ref>[http://www.mbs.jp/mukashi/ まんが日本昔ばなしホームページ] - MBS公式ホームページ。</ref>した。{{main|まんが日本昔ばなし#その他}}
その宣伝を兼ねて2011年4月10日、[[毎日放送制作日曜夕方5時枠|日曜午後5時からのアニメ]]が作品の谷間になったのを利用して復活特番を放送した。特番はこの時間としては異例の高視聴率を記録、視聴者の喜びの声も多く寄せられ河内は'''「毎週レギュラーは難しくともスペシャルは今後も実施する」'''と表明する。DVDも第1弾の5作品がトータル20万枚以上を売る大成功を収めた。{{main|まんが日本昔ばなし#2011年春、1日限りの復活}}
そして河内は公約通り同年8月の第2弾発売に合わせ『[[スパモク!!]]』の枠で2時間特番を実施、8話一挙放送して再び高視聴率を上げた。{{main|まんが日本昔ばなし#2011年夏、夏休みアニメスペシャル}}
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==== TAKAJIN MEMORIES2014 ====
[[2014年]](平成26年)の年頭記者会見を目前に控えた[[1月7日]]、関西の民放テレビ界を長年にわたって支えた[[やしきたかじん]]が死去したと発表された。河内は一夜明けた1月8日、ラジオで追悼番組を放送させた。その直後、たかじんが死の直前までレギュラー番組を持っていた[[讀賣テレビ放送]]社長[[望月規夫]]からお別れの会の発起人になるように打診を受け、年頭記者会見では会への対応を問われた。「偲ぶ会をやるならじめじめせず楽しく派手にやってほしい」というたかじんの遺志を受け、「在阪民放テレビ5局で同時生中継でもやるか」とぶち上げるなど積極的に関与。同時生中継はytvの反対で実現できなかったが、お別れの会は3月3日、『TAKAJIN MEMORIES2014 あんたのことが ICHIZUに やっぱ好きやねん』のタイトルで開催された。{{main|やしきたかじん#食道癌闘病と死去}}
 
==== ワイドFM準備、そして退任へ ====
[[2015年]](平成27年)には、市街地中心部での電波状態悪化に対応した[[FM補完中継局|ワイドFM]]の本格化が予定されていた。河内はABC、ラジオ大阪と共同で近畿圏でのワイドFM実施に向けて放送免許の申請を行った。しかし、内規で社長定年と定められている65歳を大きく過ぎ、在任も4期8年に達したことから、6月の株主総会を前に社長を退任すると発表した。後任には、常務取締役テレビ営業局長の[[三村景一]]が就くことになった。{{main|三村景一#MBS社長}}
 
== 脚注 ==