「シャルル6世 (フランス王)」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 即位 ===
1380年、父シャルル5世が[[食中毒]]で急死したため、王位を継承した。若年のため、初めは叔父である[[アンジュー]][[アンジューの領主一覧|公]][[ルイ1世・ダンジュー|ルイ1世]]、[[ベリー公]][[ジャン1世 (ベリー公)|ジャン1世]]、[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]][[ブルゴーニュ公一覧|公]][[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)|フィリップ2世]](豪胆公)らが摂政となったが、[[1388年]]から親政を開始した。しかし母ジャンヌの家系[[ブルボン家]]には精神異常を患う者もいて、シャルル6世も早くから精神的な不安定性を示していた。
 
=== 発狂 ===
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=== ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立 ===
精神異常のため、シャルル6世は事実上政務を執ることが不可能となり、豪胆公や息子の[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公)を中心とする[[ブルゴーニュ派]]と、王弟オルレアン公と息子[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル・ド・ヴァロワ]]を中心としシャルル6世を支持する[[アルマニャック派]]に宮廷内部が分裂し、主導権を巡って争うことになった。
 
このようなフランスの状勢を見て、[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|王]][[ヘンリー5世 (イングランド王)|ヘンリー5世]]は、アルマニャック派を支援しながらその裏でブルゴーニュ派と提携するなど、両派の争いに巧みに介入した。そして[[1415年]]、ヘンリー5世はシャルル6世に対し、支援の見返りとしてフランス王位の継承権譲渡とフランス領土の割譲、さらに多額の賠償金を要求した。あまりのことにアルマニャック派がこれを拒絶すると、ヘンリー5世はすかさずイングランド軍を率いてフランス北部に侵攻する。ヘンリー5世の勢いは凄まじくフランス軍は各地で連戦連敗、[[10月25日]]の[[アジャンクールの戦い]]で大敗したアルマニャック派はオルレアン公らが捕虜となる大打撃を受けた。