「清原家衡」の版間の差分

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だが真衡が出羽への行軍途中に病で急死したため許されることとなり、義家の裁定で真衡の旧領である[[奥六郡]]を清衡とともに三郡ずつ分割継承することとなった。しかし家衡はこの裁定に不服で、清衡との対立を深め、[[1086年]]([[応徳]]3年)にはついに清衡の館を襲撃して清衡の妻子を殺した。
 
清衡は義家に救援を仰ぎ、自らの裁定に逆らった家衡の行為に怒った義家は清衡に味方して家衡を攻撃したが、[[沼柵]](秋田県[[横手市]][[雄物川町]])に立てこもった家衡は、攻め寄せた清衡・義家を打ち破った。これを聞いて一族の誉れとした叔父[[清原武衡]]は家衡に味方し、家衡は武衡の誘いで、より強固な[[金沢柵]](秋田県横手市)に移った。[[1087年]]([[寛治]]元年)、金沢柵に攻め寄せた清衡・義家はこれを攻めあぐんだが、清衡に味方した吉彦秀武の献策による兵糧攻めで柵は陥落した。家衡は所有していた名馬・花柑子を射殺したのち、下人に変装し逃亡を図り、近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられて斬られた。これにより奥羽に覇をとなえた清原氏は滅亡した。家衡の享年は1062年以降の生まれと考えられる為、26歳以下となる
 
== 脚注 ==