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| ジャンル = [[映画]]、[[舞台]]、[[テレビ]]
| 活動期間 = [[1930年]] - [[2012年]]
| 活動内容 = 1930年:[[日活]][[大映京都撮影所|太秦撮影所]]に入社、映画デビュー<br />[[1934年]]:第一映画社に参加<br />[[1938年]]:[[東宝映画]]に移籍<br />[[1962年]]:東宝演劇部と契約<br />[[2000年]]:[[文化勲章]]受章
| 配偶者 = [[月田一郎]](1936年頃 - 1942年)<br />[[滝村和男]](1942年 - 1943年)<br />[[加藤嘉]](1950年 - 1954年)<br />[[下元勉]](1954年 - 後に解消)
| 著名な家族 = 父:[[山田九州男]](新派俳優)<br />娘:[[瑳峨三智子]](女優)
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = '''映画'''<br />『[[浪華悲歌]]』 / 『[[祇園の姉妹]]』<br />『[[現代人 (映画)|現代人]]』 / 『[[流れる#映画|流れる]]』 / 『[[蜘蛛巣城]]』<br />『[[どん底 (1957年の映画)|どん底]]』 / 『[[用心棒]]』 / 『[[疑惑 (松本清張)#映画|疑惑]]』<hr />'''ドラマ'''<br />『[[必殺仕事人]]』 シリーズ / 『[[必殺からくり人]]』シリーズ<br />『[[赤穂浪士 (NHK大河ドラマ)|赤穂浪士]]』 <hr />'''舞台'''<br />『[[香華]]』 / 『たぬき』 / 『女坂』
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
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| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 = '''会長特別賞'''<br />[[1995年]]([[第18回日本アカデミー賞|第18回]])<br />[[2013年]]([[第35回日本アカデミー賞|第35回]])<br />'''協会栄誉賞'''<br />[[2001年]]([[第24回日本アカデミー賞|第24回]])
| その他の賞 = '''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''女優主演賞'''<br />1952年『箱根風雲録』『現代人』<br />1956年『母子像』『猫と庄造と二人のおんな』『流れる』<hr />'''[[キネマ旬報ベスト・テン]]'''<br />'''女優賞'''<br />1956年『猫と庄造と二人のをんな』『流れる』<br />1957年『蜘蛛巣城』『どん底』『下町』』
| 備考 =
}}
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== 来歴・人物 ==
===映画界へ===
[[1917年]](大正6年)[[2月5日]]、[[大阪府]][[大阪市]][[南区 (大阪市)|南区]]千年町(現在の[[中央区 (大阪市)|中央区東心斎橋]])に生まれる。父の[[山田九州男]]{{Refnest|group="注釈"|[[1879年]](明治12年)[[5月1日]]、[[熊本市]]二本木の遊郭の生まれ。[[成美団]]を結成した[[高田実]]の弟子となり、[[1898年]](明治31年)に山田不二男の芸名で[[博多]]で初舞台を踏み、[[1900年]](明治33年)に高田の門に入って山田九洲男と改名。以後、新派の[[女形]]として活躍した<ref name="キネ旬" />。[[1948年]](昭和23年)、巡業先の[[明石]]で[[消化性潰瘍|十二指腸潰瘍]]のため死去<ref>[[大笹吉雄]]『日本現代演劇史 昭和戦後篇I』、[[白水社]]、1998年、p.451</ref>}}は[[新派]][[俳優]]で、母の律は[[北新地]]の売れっ子[[芸者]]だった<ref name="経済新聞" /><ref name="キネ旬">[[#キネマ旬報1980|キネマ旬報1980]]、p.722</ref>。山田はその母の命で、[[数え年]]で6歳の時から[[常磐津節|常磐津]]、[[長唄]]、[[清元節|清元]]、[[日本舞踊]]の稽古を始めた<ref name="ノート">[http://www.kinenote.com/main/public/cinema/person.aspx?person_id=89165&key_search=%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%88%B4 山田五十鈴]、[[キネマ旬報映画データベース|KINENOTE]]、2015年6月4日閲覧</ref>。
 
[[1924年]](大正13年)、関西に出稽古に来ていた[[清元寿兵衛|三世清元梅吉]]について本格的に清元を習い始める<ref name="キネ旬" />。[[1925年]](大正14年)、父が[[成美団]]に参加するため一家で上京して[[日本橋浜町]]の旅館に住み、[[中央区立久松小学校|久松小学校]]に入学するが、人気の落ち込んでいた父が仲間を集めて[[満州]]へ巡業に行ってしまい、旅館住まいが困難になったため、[[本郷区]]金助町の駄菓子屋の裏店に移住する<ref name="キネ旬" /><ref>[[#升本2003|升本2003]]、p.141</ref>。その後、[[永田町]]に2階借りし、母と共に清元梅吉の内弟子となった。[[1927年]](昭和2年)、師匠から清元梅美智の名を貰い、母娘揃って[[名取]]となる。後、母と[[宝塚]]に移り住み、清元の師匠をやって生計を立てた<ref>[[#升本2003|升本2003]]、p.142</ref>。
 
[[1930年]](昭和5年)、父が[[日活撮影所|日活太秦撮影所]]所長の[[池永浩久]]を知っていた縁で、同撮影所に月給百円という幹部女優並みの待遇で入社<ref name="ノート" />。芸名は[[伊勢神宮]]の[[五十鈴川]]にちなんで'''山田 五十鈴'''と決まり<ref name="経済新聞" />、同年に『剣を越えて』で[[大河内傳次郎]]の相手役としてデビューした。続いて[[池田富保]]監督のオールスター特作『[[元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻・地動の巻]]』に、新人としては異例の大抜擢で出演した<ref name="ノート" />。デビュー1年目の同年だけで15本の作品に出演し、その後も[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督の『続大岡政談 魔像解決篇』、[[内田吐夢]]監督の『[[仇討選手]]』、[[伊丹万作]]監督の『[[國士無双]]』『[[武道大鑑]]』、[[山中貞雄]]監督の『[[盤嶽の一生#映画|盤嶽の一生]]』など、一流の監督作品に立て続けに出演<ref name="ノート" />。可憐なヒロイン役で人気を集め、日活時代劇のトップ女優となった。
 
===第一映画社から東宝へ===
[[1934年]](昭和9年)9月、日活を退社した[[永田雅一]]が[[第一映画社]]を設立し、伊藤、[[溝口健二]]、[[鈴木傳明]]らとともに同社に参加する。溝口監督の『マリアのお雪』『折鶴お千』に主演するが、後者の撮影中に同社に移籍した[[月田一郎]]の子を身籠り、翌[[1936年]](昭和11年)[[3月1日]]に美和子(後の[[瑳峨三智子]])を出産した<ref name="ノート" />。月田と結婚し、出産を機に女優を廃業しようと考えていたが、溝口監督の『[[浪華悲歌]]』『[[祇園の姉妹]]』に主演すると、その演技が高く評価され、生涯女優をやることを決意した。同年、第一映画が解散し、[[新興キネマ]][[東映京都撮影所|京都太秦撮影所]]に月田とともに移籍した。
 
[[1938年]](昭和13年)6月、[[東宝映画]]に入社。同社第1作は[[川口松太郎]]原作・[[成瀬巳喜男]]監督の『鶴八鶴次郎』で、[[長谷川一夫]]と三味線弾きの夫婦に扮し、気は強く情にはもろい女芸人気質を好演した<ref name="キネ旬2">[[#キネマ旬報1980|キネマ旬報1980]]、p.726</ref>。それ以来、『蛇姫様』『昨日消えた男』『[[婦系図#1942年版|婦系図]]』などで長谷川とコンビを組んだ。そのほか『新篇丹下左膳』シリーズでは[[丹下左膳]]役の大河内の相手役を演じ、[[渡辺邦男]]監督の『新妻鏡』、成瀬監督の『上海の月』ではヒロインを演じた。スターとして揺るぎない地位を占めたが、夫の月田は役に恵まれず、夫婦の収入に差が生じるようになり、夫婦仲も次第に亀裂が入る<ref name="キネ旬2" />。[[1940年]](昭和15年)には別居し、娘の美和子は月田家が引き取った<ref name="ノート" />。[[1942年]](昭和17年)に月田と離婚し、映画製作者の[[滝村和男]]と結婚するが、1年余りで離婚した<ref name="キネ旬2" /><ref>[[#山田2000|山田2000]]、p.160</ref>。
 
1942年(昭和17年)、長谷川と共に[[新演伎座]]を結成。3月に[[東京宝塚劇場]]で[[菊田一夫]]作『ハワイの晩鐘』、川口作『お島千太郎』で旗揚げして以降、『伊那の勘太郎』『[[姿三四郎]]』などの舞台に立ち、[[太平洋戦争]]末期には軍の慰問にも回った<ref name="キネ旬2" />。翌[[1943年]](昭和18年)、[[花柳章太郎]]主演の『[[歌行燈#1943年版|歌行燈]]』に出演するが、この共演を機に花柳と恋愛関係に陥った<ref name="キネ旬2" />。
 
===戦後・演技派女優へ===
[[File:Yamada Isuzu and Hanayagi Kogiku.JPG|thumb|[[花柳小菊]](右)と(1949年)]]
[[1946年]](昭和21年)、[[豊田四郎]]監督の『檜舞台』が戦後第1作となり、戦中の『芝居道』以来共演のなかった長谷川とコンビを復活した。次いで[[衣笠貞之助]]監督の『[[或る夜の殿様]]』に出演し、同時に衣笠とも恋愛関係を結んだ<ref name="キネ旬2" />。同年10月、第2次[[東宝争議]]が発生。ストに反対する大河内に同調して、長谷川、[[高峰秀子]]、[[藤田進]]、[[黒川弥太郎]]、[[入江たか子]]、[[原節子]]、[[山根寿子]]、[[花井蘭子]]とともに[[十人の旗の会]]を結成して[[日本映画演劇労働組合]](略称:日映演)傘下の東宝従業員組合を脱退。これが元で翌[[1947年]](昭和22年)3月に[[新東宝映画製作所]]が創立された。しかし、すぐにその脱退組を離れてフリーとなり、製作が再開された東宝で衣笠監督の『[[女優 (1947年の映画)|女優]]』に[[松井須磨子]]役で主演した<ref name="キネ旬2" />。この頃、妻子ある衣笠と[[経堂]]に新居を建て、同棲生活をしている<ref>[[#升本2003|升本2003]]、p.176</ref><ref>[[鈴木晰也]]『人生仕方ばなし 衣笠貞之助とその時代』、2001年、[[ワイズ出版]]、p.135</ref>。
 
[[1950年]](昭和25年)、同年公開の『影法師』で共演した[[加藤嘉]]と結婚。共産党員だった加藤の影響で思想的に左旋回し、同年に日映演に加入{{Refnest|group="注釈"|[http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/24/rn1952-292.html 法政大学大原社研 東宝争議〔日本労働年鑑 第24集 292〕]によれば、1950年5月26日に「一労働者として」日映演への加入声明を発表したという記述がみられる}}。「人民女優」とのレッテルを張られ<ref name="経済新聞" />、[[レッドパージ]]の対象にもなった。[[1952年]](昭和27年)、加藤とともに現代俳優協会を設立<ref>山田五十鈴『山田五十鈴 映画とともに』、日本図書センター、2000年、p.161</ref>。この頃は[[亀井文夫]]監督の『[[母なれば女なれば]]』『[[女ひとり大地を行く]]』、[[関川秀雄]]監督の『[[ひろしま (映画)|ひろしま]]』など、独立プロ系の監督作に多く出演した。
 
その間、娘の瑳峨三智子が[[東映]]に入社し、母娘が再会する。しかし、瑳峨は自分を棄てた山田を憎み撮影所で会ったときも母のことを「山田さん」と呼んでいたとされる。そのわだかまりは、瑳峨が山田より先に死を迎えるその日までついに消えなかった。[[1954年]](昭和29年)2月、加藤と家庭と仕事の不成立を理由に協議離婚<ref name="ノート" />。その直後に[[下元勉]]と結婚するが数年で離婚。
 
その後は女優として最も充実した時期となり、成瀬監督の『[[流れる#映画|流れる]]』、豊田監督の『[[猫と庄造と二人のをんな]]』、[[小津安二郎]]監督の『[[東京暮色]]』、[[黒澤明]]監督の『[[蜘蛛巣城]]』『[[どん底 (1957年の映画)|どん底]]』、[[渋谷実]]監督の『[[悪女の季節]]』『もず』、[[市川崑]]監督の『[[ぼんち (小説)#映画|ぼんち]]』など、巨匠・中堅問わず幅広い作品に出演。この時期だけで[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]主演女優賞・助演女優賞をそれぞれ1回、[[毎日映画コンクール]]女優主演賞を1回、[[キネマ旬報ベスト・テン]]女優賞を2回受賞し、名実ともに映画界を代表する大女優となった。
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[[2012年]](平成24年)[[7月9日]]、[[多臓器不全]]により[[東京都]][[稲城市]]内の病院で死去。{{没年齢|1917|2|5|2012|7|9}}。<ref name="nikkansports-1" /><ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/select/news/20120710k0000m040123000c.html |title=山田五十鈴さん:死去95歳 映画、舞台で活躍 |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞社 |date=2012-07-10 |accessdate=2012-07-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120712003655/http://mainichi.jp/select/news/20120710k0000m040123000c.html |archivedate=2012-07-12}}</ref>。戒名は「'''寳光院天猷妙津大姉(ほうこういんてんゆうみょうしんだいし)'''」(「妙」は正確には玄に少)<ref name="600人">{{Cite news |url=http://www.oricon.co.jp/news/2014204/full/ |title=昭和の大女優・山田五十鈴さん通夜に600人参列 「養子会」メンバーら偲ぶ |newspaper=ORICON STYLE |publisher=オリコン |date=2012-07-11 |accessdate=2016-10-07}}</ref>。「宝の光」や「遥(はる)かな天を描く」「妙(たえ)なる潤い」などの意味が込められている。
 
葬儀には、生前に山田を慕っていた俳優らでつくる「養子会」のメンバーである[[市村正親]]、[[西郷輝彦]]<ref name="Sponichi20120711">{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/07/11/kiji/K20120711003653980.html |title=山田五十鈴さん死去 「養子会」市村正親らが送り出す |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2012-07-11 |accessdate=2016-10-07}}</ref>、[[榎木孝明]]<ref name="Sponichi20120711" />、[[萬田久子]]を始め、[[司葉子]]、[[浜木綿子]]、[[三田佳子]]、[[草笛光子]]、[[北大路欣也]]、[[平幹二朗]]、[[中条きよし]]、[[池上季実子]]、[[佐久間良子]]、[[宇津井健]]、[[八千草薫]]、[[朝丘雪路]]、[[富司純子]]、[[江波杏子]]、[[山本陽子]]、[[三浦布美子]]、[[石井ふく子]]、[[中村メイコ]]、[[坂東三津五郎 (10代目)|坂東三津五郎]]、[[南果歩]]、[[沢口靖子]]、など600名が参列した。
 
== エピソード ==
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=== その他のテレビ出演 ===
* [[徹子の部屋]](テレビ朝日) - 計11回出演
*[[花王名人劇場]]「第2回[[花王名人大賞スペシャル|花王名人大賞]]」(1982年、KTV) - 特別賞<ref>{{放送ライブラリー|164485|007008}}</ref>
*すばらしき仲間「女優として女として」(1986年、CBCテレビ) - [[杉村春子]]と出演<ref>{{放送ライブラリー|162117|003017}}</ref>
*芸を語る「山田五十鈴 『たぬき』と『淀どの』の間」(1988年、NHK)<ref>{{放送ライブラリー|123473|003273}}</ref>
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*: 鬼平犯科帳 血闘(1995年(平成7年)3月、新橋演舞場で初演) - お里 役
* 隠れ菊
*: 1998年 (平成10年) 芸術座で上演。[[連城三紀彦]]原作。共演は[[萬田久子]]。
* 夏しぐれ
*: 2001年(平成13年)、芸術座で上演。[[石井ふく子]]原案・演出。共演は[[京マチ子]]、[[榎木孝明]]、[[和泉雅子]]、[[涼風真世]]など。最後の舞台作品。
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[[Category:日本の女優]]
[[Category:日本の舞台優]]
[[Category:サイレント映画の俳優]]
[[Category:日本の女性声優]]