「持田治也」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
不必要な改行するな |
||
2行目:
==経歴==
柔道私塾の[[講道学舎]]を創設した[[横地治男]]の孫にあたることから、幼い頃から柔道に取り組んでいた<ref name="近代柔道">「CLOSE-UP 兄弟」[[近代柔道]] [[ベースボールマガジン社]]、1990年12月号 7項</ref>。[[世田谷区立弦巻中学校|弦巻中学]]から[[世田谷学園中学校・高等学校|世田谷学園高校]]へ進むと、3年の時には[[金鷲旗全国高等学校柔道大会|金鷲旗]]で1年後輩となる[[バルセロナオリンピック]]71kg級金メダリストの[[古賀稔彦]]の兄である[[古賀元博]]や[[1989年世界柔道選手権大会|世界選手権]]の78kg級で2位となるいとこの[[持田達人]]とともに活躍して初優勝を果たした。重量級選手が中心になっていた高校柔道界の団体戦において、軽量級や中量級主体の小兵軍団が全国優勝を果たしたことで一躍センセーションを巻き起こすことにもなった<ref>「講道学舎の強さを探る」[[近代柔道]] [[ベースボールマガジン社]]、1992年11月号 11項-15項</ref>。
1983年には[[日大|日本大学]]へ進学すると、3年の時に[[は]][[全日本学生柔道優勝大会|優勝大会]]でチームの10年ぶりとなる優勝に持田達人や[[村上修司]]、[[金野潤]]などとともに貢献した<ref name="近代柔道" />。▼
▲1983年には[[日大|日本大学]]へ進学すると、3年の時に[[は]][[全日本学生柔道優勝大会|優勝大会]]でチームの10年ぶりとなる優勝に持田達人や[[村上修司]]、[[金野潤]]などとともに貢献した<ref name="近代柔道" />。4年の時には[[全日本学生柔道体重別選手権大会|正力杯]]全日本学生体重別大会の95kg級で優勝を飾った<ref name="近代柔道" />。
1987年には[[警視庁]]に入庁すると、1988年の[[全日本柔道選手権大会|全日本選手権]]に東京都代表で出場を果たしたが、二回戦で敗れた<ref name="近代柔道" />。
1992年には世田谷学園高校の柔道部コーチとなると、チームは高校団体3冠([[全国高等学校柔道選手権大会|高校選手権]]、金鷲旗、[[全国高等学校総合体育大会柔道競技大会|インターハイ]])を達成することになった<ref name="近代柔道" />。
1993年には前任の[[友野雅義]]から引き継いで世田谷学園高校の柔道部監督に就任し、全国大会初采配となった金鷲旗では、[[東海大学付属相模高等学校・中等部|東海大相模高校]]有利との下馬評を覆して優勝を飾った<ref>「平成5年度金鷲旗柔道大会」[[近代柔道]] [[ベースボールマガジン社]]、1993年9月号 71項</ref>。
以降も、金鷲旗ではコーチ時代からの5連覇を含めて8回の優勝(監督としては7回)、高校選手権では優勝4回、インターハイでは優勝3回と全国大会で数多くの優勝を果たした<ref name="highschool">[http://www.judo-ch.jp/result/high/ 全国高等学校柔道選手権大会]</ref><ref name="kinshuki">[http://www.judo-ch.jp/result/kinshuki/ 金鷲旗高校柔道大会]</ref><ref name="interhigh">[http://www.judo-ch.jp/result/ih/ 全国高等学校総合体育大会柔道競技大会]</ref>。
選手では重量級の世界チャンピオンである[[棟田康幸]]や、アテネ五輪
2008年以降、講道学舎の生徒は[[日本学園中学校・高等学校|日本学園高校]]へ進むようになったこともあって、全国大会での実績を上げていない(講道学舎自体も2015年に
==監督としての実績==
|