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'''アニー・ジャンプ・キャノン'''(''Annie Jump Cannon'' 、[[1863年]][[12月11日]] - [[1941年]][[4月13日]])は[[アメリカ合衆国]]の女性天文学者である。現在も使われている恒星の分類法を確立し、膨大な数の天体の分類を行った。
== 生涯 ==
[[デラウェア州]]のドーバーに造船業者、州議会議員の娘に生まれる。母親は天文学に興味を持っており、アニーもその血を受けついだ。1880年に当時の女性のための学校としては最もレベルの高い[[マサチューセッツ州]]の[[ウェルズリー大学]]に進んだ。マサチューセッツの気候により病気になり、聴力をほとんど失うことになった。1884年に物理学の学位を得て帰郷するが、聴覚の問題もあり、社会的な活躍をすることなく暮らした。1892年に日食の撮影に[[ヨーロッパ]]に旅するが、状況はほとんど変わらなかった。1893年に母親が死ぬとウェルズリー大学の恩師サラ・ウィティングに依頼して、助手に採用され、天文学を学ぶ機会を得る。[[分光学]]の技術を学び、写真技術に習熟した。さらに天文学を学ぶために[[ハーバード大学]]の[[ラドクリフ・カレッジ]]に進み1896年[[ハーバード大学天文台]]の[[エドワード・ピッカリング]]の助手に雇われた。1907年、修士号をウェスレー・カレッジから得た。その後キャノンはハーバード天文台で働き、始め変光星の観測と分類を行った。1911年に写真技術の技官となった。1900年頃のハーバード大学では、[[スペクトル型]]による星の分類が行われており、エドワード・ピッカリングと助手の[[ウィリアミーナ・フレミング]]によって、水素スペクトルの強さによって、A、B、C、・・・というように22種類に分けられたが、その物理的な意味は明確ではなかった。キャノンは、色温度が天体の特徴であることに注目し、現在も使用されている分類法 O, B, A, F, G, K, Mの形に再編した。1915年から1924年にかけてヘンリー・ドレーパーカタログは刊行され、キャノンは225,300の恒星を分類した。キャノンの分類法は1910年までには標準的な分類法となった。
 
キャノンは天体のスペクトル写真を目で分類し、助手が記録するという方法で、見やすい場所では1分間に3個ほどの速さで分類することができた。1922年に6ヶ月間[[ペルー]]の[[ハーバード観測所]]に派遣され、[[南半球]]の星の写真を撮影した。帰国後、ヘンリードレイパー拡大カタログHenry Draper Extension Catalogueの作成に取り組み、カタログは1929年、1936年、1949年に刊行された。