「シケリア戦争」の版間の差分

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紀元前540年頃、カルタゴ王マルケス(Malchus、[[セム語]]で王を意味する)は「全シケリアを占領し」略奪品をレバノンの[[ティルス]]に送ったと言われるが、おそらくはフェニキア人殖民都市であるモティア、パノルムスおよびソルスがカルタゴの支配下となったことを意味すると思われる。この間にもフェニキア人都市に近い[[セリヌス]]および[[ヒメラ]](現在の[[テルミニ・イメレーゼ]]の東12キロメートル)は拡大を続けて要り、カルタゴとギリシア都市が全面対決していなかったことを示唆している。
 
このおよそ30年後、スパルタの王子ドレイウス([[:en:Dorieus|en]])は、3年にわたり北アフリカに殖民都市を建設するという努力を続けていたが、結局はカルタゴに阻止された。一旦スパルタに戻った後の[[紀元前511年]]、ドレイウスは[[エリクス (古代都市)|エリュクス]]現在の[[:en:Eryxエーリチェ (Sicilyトラーパニ県)|enエリーチェ]])近くに殖民都市を建設するためにシケリアに上陸した。対するカルタゴはエリミ人都市である[[セジェスタ|セゲスタ]]を支援して[[紀元前510年]]にドレイウスの遠征軍を撃破した。ギリシアの残存兵はその後ヘラクレア・ミノア([[:en:Heraclea Minoa|en]])を建設した<ref>Diodorus Siculus IV.23</ref>。その後年代は不明だがシケリアのギリシア人(おそらくアクラガス(現在の[[アグリジェント]])、ゲラ(現在の[[ジェーラ]])およびセリヌス)は復讐のためカルタゴ軍と戦い、ミノアは破壊されたがギリシアにも利益をもたらす条約が結ばれた<ref>Freeman, Volume 2, p. 97-100</ref>。ドレイウスの死に対する復讐というアピールは、弟である[[レオニダス1世|レオニダス]](後にスパルタ王となり[[ペルシャ戦争]]における[[テルモピュライの戦い]]で戦死)も含めて本土のギリシア人には無視された。このエピソードは、シケリアのギリシア殖民都市のみでカルタゴに立ち向かっても勝利は困難であること<ref>Baker, p. 15</ref>、であるにも関わらずギリシア本土からの援軍は不確実なことを示し、ギリシア殖民都市はより強力な指導者を求め、[[僭主]]が生まれるきっかけとなった。
 
===シケリア都市国家の僭主===
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==その後==
アガトクレスに講和を強要した後、シケリアではしばらくは平和な時期が続いたが、シュラクサイの内紛で国力が低下した[[紀元前278年]]、カルタゴはシュラクサイを包囲した。シュラクサイは[[イピロス|エピロス]]王[[ピュロス]]に救援を求めた。ピュロスが到着すると、カルタゴ軍は戦闘を避けて撤退した。これがカルタゴによる最後のシュラクサイ攻撃であった([[シュラクサイ包囲戦 (紀元前278年)|第四次シュラクサイ包囲戦]])。ピュロスはシケリアに上陸すると、パノルムス、エリクス、イアティアスを占領したが、カルタゴの最後の拠点であるリルバイウムの攻略には失敗した。ピュロスの専制的な振る舞いのため、シケリアのギリシア人はピュロスに対して敵対的となり、いくつかの都市はカルタゴやメッセネを強奪していた傭兵部隊である[[マメルティニ]]と同盟した。ピュロスは[[紀元前275年]]にイタリアに引き上げた。シュラクサイの僭主[[ヒエロン2世]]はマメルティニと対立し、[[紀元前265年]]にマメルティニはカルタゴとローマの双方に救援を求めた。これが[[第一次ポエニ戦争]]の原因となる。一般的にはそうは認識されていないが、これらの二つの戦争はシケリア戦争の最後の段階と見ることも出来る。
 
ローマはシケリアの近くに位置していたにも関わらず、紀元前5世紀と4世紀の間シケリアに介入しなかったが、これは紀元前5世紀にはエトルリア人と戦っており、紀元前4世紀にはイタリア半島内での征服戦争を行っていたためである。また、当時のローマは有力な海軍を持っていなかった。紀元前264年、ローマはシケリアに遠征しヒエロン2世にローマとの同盟を強制した。ローマは第一次ポエニ戦争に勝利し、シュラクサイを除くシケリア全体をローマの属領とした([[シキリア属州]])。しかしシュラクサイは[[第二次ポエニ戦争]]でローマに敵対し、[[紀元前212年]]にシュラクサイは陥落([[シュラクサイ包囲戦 (紀元前214年-紀元前212年)|シュラクサイ包囲戦]])、シケリアは完全にローマの属州となった。