「ハインリヒ・ベル」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
MomijiRoBot (会話 | 投稿記録)
m Bot: </br> → <br /> ∵Tag with incorrect syntax: Check Wikipedia #2
編集の要約なし
7行目:
| birth_name =
| birth_date = [[1917年]][[12月21日]]
| birth_place = [[image:Flag of the German Empire.svg|border|22x20px]][[ドイツ帝国|ドイツ国]]{{DEU1871}}、[[ケルン]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1917|12|21|1985|7|16}}
| death_place = {{GERBRD}}、[[ドイツの市町村一覧#{{illm|デューレン郡(Düren|de|Kreis ,DN)Düren}}{{illm|デューレン郡]]クロイツァウ|de|Kreuzau}}
| occupation = [[小説家]]
| nationality = {{GER}}
38行目:
ドイツの[[ケルン]]で、町工場を営む家具職人の息子として[[カトリック教会|カトリック]]教徒の一家に生まれる。彼は1933年に[[ナチス]]が政権につき、ギムナジウムの同級生の大多数が[[ヒトラー・ユーゲント]]に加わる中で不参加を守り続けた。高校卒業後、本屋に弟子入りし、その後[[ケルン大学]]でドイツ語を研究した。1939年に[[ドイツ国防軍]]に召集され、[[第二次世界大戦]]中は[[フランス]]、[[ルーマニア]]、[[ハンガリー]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]を転戦し、それらの戦地で四度の負傷をし、1945年4月に[[アメリカ軍]]に捕らえられ捕虜収容所に送られた。しかし、彼は凍傷で足の指を全て失い、生涯病院への通院を余儀なくされた。休暇中の1942年に結婚し、息子が生まれたが1945年に亡くしている。
 
戦後1946年から短編小説を書き始め、1949年に最初の長編小説『汽車は遅れなかった』を出版、1951年に『Die schwarzen Schafe』で[[47年グループ|47年グループ賞]]を受賞、1953年の『そして一言も言わなかった』でその名声を広める。これらの作品は「廃墟の文学 ''Trümmerliteratur''」と呼ばれた。その後多くの物語、短編小説、ラジオドラマの脚本やエッセイを書き著す。1971年に発表した『婦人のいる群像』により1972年ノーベル文学賞を受賞し、1946年の[[ヘルマン・ヘッセ]]以来のドイツ人受賞者となった。1970年代に[[西ドイツ]]で過激派によるテロが活発化した際、ベルは1972年1月の『[[デア・シュピーゲル|シュピーゲル]]』誌上でテロに対する冷静な対応を訴えたことでジャーナリズムから袋だたきにされ、テロリスト同調者とまで呼ばれた。1974年に大衆新聞のあくどさを描いた『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』は120万部を越える空前のベストセラーとなる。彼の作品は30語を超える言語に翻訳された。彼はドイツで最も広く読まれた作家のうちの一人である。
 
1969年からは西ドイツペンクラブ会長、1971年からは[[国際ペンクラブ]]の会長を務めた。新しいドイツの代表として頻繁に旅行し、その物腰は[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]政権下に悪評が高まったドイツ人の尊大な態度とは対照的な、謙虚なものであった。彼の作品は資本主義の暗い側面を描写し、西側諸国だけでなく[[ソ連]]や東欧諸国でも多くの読者を得て、数百万ものコピーがソ連国内で販売された。[[アレクサンドル・ソルジェニーツィン]]がソ連から追放された時、彼は最初にベルの家に避難した。1983年にはケルンの名誉市民に選ばれる。後には妻と共にケルンおよび[[アイフェル]]で暮らした。