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== 北京条約 ==
1860年、連合軍は北京を占領し、10・11月に[[ロシア帝国|ロシア]]公使[[ニコライ・イグナチェフ]]の調停の下に、英仏遠征軍司令官と[[愛新覚羅奕キン|恭親王]]との間に[[北京条約]]が締結された。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し[[九竜半島]]の割譲、中国人の海外への渡航許可などを認めさせられた。最後の渡航許可というのは中国人労働者を劣悪な条件で移民させる[[苦力]]貿易を公認するものである。この条項は労働者移民の公認と、それによる一定の移民保護を目的に入れられたとされる。

更に調停に入ったロシアに対しても、1858年にロシア帝国東シベリア総督[[ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー]]が締結した[[アイグン条約]]以後の2年間は清露両国の雑居地であった[[外満州]](現在の[[沿海州]])を、正式に譲る事になった。特に、ロシアが[[沿海地方]]に軍港[[ウラジオストック]]を建設してロシア[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]]を常駐させ、[[シベリア鉄道]]建設によって大規模な兵の陸送を迅速化させようと計画したため、[[日露戦争]]の原因ともなった。その後も[[ロシア革命]]時の[[シベリア出兵]]([[1919年]])では[[極東共和国]]の帰属を巡って日露間で紛争地となった。
 
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