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清和天皇が[[東宮]]であったころ、天皇の祖母である皇太后[[藤原順子]]の邸にて出仕か。[[貞観_(日本)|貞観]]元年([[859年]])9歳の清和天皇即位にともなう[[大嘗祭]]において、[[五節舞|五節舞姫]]をつとめ[[従五位下]]に叙された。清和天皇元服の2年後の貞観8年([[866年]])、25歳で入内し女御となり貞明親王(後の[[陽成天皇]])を産む。貞観18年([[876年]])の陽成天皇の即位にともない、[[元慶]]元年([[877年]])皇太夫人となり[[中宮職]]が付与され、さらに元慶6年([[882年]])には皇太后の尊称を受けた。
 
しかし、同母兄である[[摂政]]藤原基経とは仲が悪かった。[[在原文子]](清和の[[更衣 (後宮)|更衣]])の重用を含めた高子の基経を軽視する諸行動が、基経をして後に外戚関係を放棄をしてまでも高子・陽成天皇母子を排除させるに至ったとの見方もある<ref>瀧波貞子「陽成天皇廃位の真相」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』(思文閣出版、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収)</ref>。ただし、在原文子を更衣としてその間に皇子女を儲けたのは清和天皇自身である。高子が清和天皇との間に貞明親王(陽成天皇)・[[貞保親王]]・[[敦子内親王]]を儲けたにもかかわらず、清和は氏姓を問わずあまたの女性を入内させ多くの皇子を儲けていたことから、基経も母方の出自が高くない娘[[藤原頼子|頼子]]を入内させ、さらに同じく出自の低い[[藤原佳珠子|佳珠子]]を入内させて外孫の誕生を望んだために、高子の反発を招いたと見ることもできる。<!-- なお陽成天皇の在位中、一人も正式な妃は入内していない。 -->
 
こういった経緯もあり、陽成天皇が退位するに当たっては、次の天皇として高子の子であり陽成の弟である貞保親王は選ばれず、[[光孝天皇|時康親王]](光孝天皇)が選ばれることなった。また、光孝天皇の容体が悪化した際も次期天皇は貞保親王ではなく、臣籍降下していた[[宇多天皇|源定省]](宇多天皇)が前例を破って選ばれることなった。
 
[[寛平]]8年([[896年]])宇多天皇の時、元慶年代に自らが建立した東光寺の[[座主]][[善祐]]と密通したという疑いをかけられ、皇太后を廃されたが、没後の[[天慶]]6年([[943年]])に復位されている。
 
[[伊勢物語]][[大和物語]]などを史実と鑑みる見解からは、入内する以前に[[在原業平]]と恋愛関係があったと推測されている。
 
[[古今和歌集]]に一首採録(歌番号4番)。
 
== 脚注 ==
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<references />
 
{{歴代皇太夫人一覧}}