「イングランド国教会」の版間の差分

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イングランド国教会が正式にローマから分かれることになるのは[[1559年]]である。議会はエリザベス女王を「信仰の擁護者」(首長)として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。さらに女王は[[1563年]]の聖職者会議で「イングランド国教会の[[39箇条]]」を制定し、イングランド国内の国教会を強化した。
 
=== ピューリタン革命とカトリック解放 ===
このころから、イングランドにおける清教徒([[ピューリタン]])と国教会派の対立が深刻化した。[[1603年]]に即位した[[ジェームズ1世_(イングランド王)|ジェームズ1世]]は強く国教会派を支持、また[[王権神授説]]を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で[[欽定訳聖書]]の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の治世では国教会派がスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって[[清教徒革命]]が勃発し、敗れたチャールズ1世は[[1649年]]に処刑された。しかしその後、[[イングランド王政復古|王政復古]]や[[名誉革命]]を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。