「イングランド国教会」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
38行目:
このころから、イングランドにおける清教徒([[ピューリタン]])と国教会派の対立が深刻化した。[[1603年]]に即位した[[ジェームズ1世_(イングランド王)|ジェームズ1世]]は強く国教会派を支持、また[[王権神授説]]を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で[[欽定訳聖書]]の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の治世では国教会派がスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって[[清教徒革命]]が勃発し、敗れたチャールズ1世は[[1649年]]に処刑された。しかしその後、[[イングランド王政復古|王政復古]]や[[名誉革命]]を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。
 
イングランド国教会主流派と対立した人々の中には、国教会内部で改革を行おうとする非分離派もいたが、国教会から出て別の教会を立てる者も多かった。後者を[[イングランド国教会の分離派|分離派]]と呼ぶ。このような国教会から出たプロテスタント会派に[[バプティスト]]・[[メソジスト]]などがある。[[1829年]]の[[ローマ・カトリック教徒解放]] ([[:en:Roman Catholic Relief Act 1829|Roman Catholic Relief Act 1829]])は、[[カトリック解放]]に待望久しかった市民的諸権利の回復を保障し、16世紀以来非合法化されてきたカトリック教会の再建を可能とした。
 
現代のイングランド国教会は、世界の聖公会において主導的役割を果たすと共に、ローマ・カトリックなどとの対話に積極的にのりだし、[[エキュメニカル運動]]にも積極的な役割を果たしている。ただしローマ・カトリック側は[[1903年]]、教皇[[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]]の大勅書({{en|Apostolicae Curae et Caritatis}})で、聖職者の[[叙任]]は無効と宣言しており、[[東方教会]]とは若干差別がある。