「スティーヴ・クロッパー」の版間の差分

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|Name = スティーヴ・クロッパー<br>Steve Cropper
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'''スティ-ヴ・クロッパー'''(Steve Cropper)こと'''スティーヴ・リー・クロッパー'''(Stephen Lee Cropper,[[1941年]][[10月21日]] - )は[[アメリカ合衆国]][[ミズーリ州]]ドーラ出身のギタリスト、作曲家、レコーディングプロデューサー。[[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー社]]のエレキギター「[[フェンダー・テレキャスター|テレキャスター]]」及びそれを元にしたピービー社のオリジナル・モデルを愛用し、世界でも指折りの[[テレキャスター]]使いとして名を馳せる。
 
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第36位、2011年の改訂版では第39位。
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やがて結成したバンド「ロイヤル・スペーズ」は、「[[マーキーズ|ザ・マーキーズ]]」に名前を変え、[[スタックス・レコード|スタックス・レーベル]]の専属バックバンド (当時の[[ソウルミュージック]]は歌手以外の演奏者を殆どのレコードで使い回していた) となった。これが1958年頃のことではないかとされている。ザ・マーキーズには[[ドン・ニックス]]、[[ドナルド・ダック・ダン]]、[[ウェイン・ジャクソン]]も加わっていた。このバンドから[[スピンオフ]]したのが[[メンフィス・ホーンズ]]、[[パッカーズ]]、[[ブッカー・T&ザ・MG's]]である。
 
スティーヴ・クロッパーが[[ブッカー・T&ザ・MG's]]としての活動を開始したのは1962年であった。このバンドは1960年代を通してスタックス・レーベルで数多くのレコード制作に関わることになる。[[オーティス・レディング]]、[[サム&デイヴ]]、[[アルバート・キング]]、[[ジョニー・テイラー]]、[[エディ・フロイド]]、[[ステイプル・シンガーズ]]、[[ウィルソン・ピケット]]などである。この時彼の名声は、もはやアメリカに留まらなかった。[[ビートルズ]]のメンバーである[[ジョン・レノン]]と[[ポール・マッカートニー]]は[[オーティス・レディング]]の作品におけるクロッパーのプレイを高く評価している。ジョンとポールは、メンフィスでクロッパーと共にセッションをしようと試みたが、当時[[ビートルズ]]のマネージャーだった[[ブライアン・エプスタイン]]によって、(安全上の問題から)この計画は中止となった。1969年にはソロ・アルバム''With a Little Help From My Friends''も発表している。
 
スタックス在籍中のクロッパーに関して、ロブ・ボウマン著「スタックスレコード物語 SOULVILLE U.S.A.」の中でブッカーTジョーンズはこう語っている。
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ブッカー・T&ザ・MG'sでギタリストとして仕事する傍ら、エディ・フロイド「ノックオンウッド」やウィルソン・ピケット「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」などの名曲を作曲した。また、オーティス・レディングの代表曲はクロッパーとオーティスの共作である。
 
しかしスタックス・レーベルが看板スター、オーティス・レディングの死や主要スタッフの離脱で勢いを失うと、スティーヴもレーベルを離脱。[[ジェリー・ウィリアムス]]らとともに自らのプロダクションTrans-Maximusを設立して、様々なミュージシャンのアルバム制作に関わってゆく。この時期に彼が関わったのは[[ジェフ・ベック]]、[[リンゴ・スター]]、[[タワー・オブ・パワー]]、[[ホセ・フェリシアーノ]]、[[ジョン・レノン]]らである。
 
1975年にスティーヴは活動拠点をメンフィスからロサンゼルスに移す。ここで彼はドナルド・ダック・ダンやブッカー・T・ジョーンズらとともにMG'sを復活させようと動くが、[[アル・ジャクソン]]の急死によりこれは頓挫する。1977年にはリヴォン・ヘルム&RCOオールスターズの一員としてダック・ダン、ポール・バターフィールドらと共に来日。1978年にスティーヴは[[ブルース・ブラザーズ]]・バンドに参加。出演した映画も大ヒットする。