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| latin= Heondeok Wang
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'''憲徳王'''(けんとくおう、生年不詳 - [[826年]])は[[新羅]]の第41代の王(在位 : [[809年]] - 826年)であり、姓は金、[[諱]]は彦昇<ref>『[[三国遺事]]』王暦では諱は彦升と記される。</ref>。父は第38代[[元聖王]]の元太子の金仁謙([[昭聖王]]により恵忠大王と追封)、母は[[新羅#官位制度|角干]](1等官)の金神述の娘の淑貞夫人(昭聖王により聖穆太后と追封)。王妃は礼英角干の金礼英(金仁謙の弟、[[神武王]]により恵康大王と追封)の娘の貴勝夫人<ref>『三国遺事』王暦では、憲徳王の弟の忠恭礼英角干の娘の貴勝とし、皇娥王后と諡されたと記す。</ref>。[[809年]]7月に甥の哀荘王を殺害して、自ら王位に就いた。
 
== 即位まで ==
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== 治世 ==
即位するとただちに[[唐]]に使者を派遣して先代の哀荘王の死を伝え、唐の[[憲宗 (唐)|憲宗]]からは〈開府儀同三司・検校尉・持節大都督・鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王〉に[[冊封]]された。このとき王妃に対する[[冊命]]では王妃は貞氏とされている<ref>唐の[[同姓不婚]]の風習を考慮して別姓を名乗ることとなったもので、王妃は礼英角干(1等官)の娘であり、兄弟(均貞、憲貞)の[[輩行字]]の影響からか、貞氏としている。[[哀荘王]]の脚注も参照。</ref>。その後も唐に対しては810年10月に王子金憲章を送って金銀製の仏像などを献上したほか、定期的に[[朝貢]]を行なった。また、[[819年]]7月には唐の{{lang|zh|鄆州}}([[山東省]][[済寧|済寧市]])で[[李師道]]が反乱を起こすと、兵馬を徴発する憲宗の詔勅に応えて将軍金雄元ら3万の兵を派遣し、唐を援けている。
 
[[812年]]9月には[[渤海 (国)|渤海]]へも使者を派遣して動向をうかがっていたが、宣王[[大仁秀]]が即位するに及んで緊張を増し、後に[[826年]]7月には[[新羅#九州|漢山州]]([[京畿道]][[広州市 (京畿道)|広州市]])以北の州・郡から1万人を徴発して{{lang|zh|浿江}}([[大同江]])沿いに300里の長城を築いて、渤海の南下を食い止める備えとした。