「第六潜水艇」の版間の差分

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Aimai88 (会話 | 投稿記録)
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午前10時ごろから訓練を開始、10時45分ごろ、何らかの理由で煙突の長さ以上に艇体が潜航したために浸水が発生したが、閉鎖機構が故障しており、手動で閉鎖する間に17メートルの海底に着底した。佐久間大尉は母船「歴山丸」との申し合わせを無視しがちで、第六潜水艇は日ごろから申し合わせよりも長時間の潜航訓練を行っていたため、当初は浮上してこないことも異常と思われなかった。また、母艦の見張り員は、異常と報告して実際に異常がなかった場合、潜水艇長の佐久間大尉の怒りを買うのが怖くて報告しなかった、とも述べており、調査委員会はこの見張り員の責任を認めつつも、同情すべき点が多いとして処分していない。異常に気がついた後、歴山丸は呉在泊の艦船に遭難を報告。救難作業の結果、16日(17日)に引き揚げられ、内部調査が行われた。佐久間艇長以下、乗組員14人のうち12人が配置を守って死んでいた。残り2人は本来の部署にはいなかったが、2人がいたところはガソリンパイプの破損場所であり、最後まで破損の修理に尽力していたことがわかった。歴山丸の艦長は、安全面の不安からガソリン潜航をはっきりと禁止しており、また佐久間大尉もガソリン潜航の実施を母船に連絡していなかった<ref>学研「歴史群像」2009.8</ref>。歴山丸の艦長は事故調査委員会において、佐久間大尉が過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼していたことと、禁令無視が事故を招いたのだと述べている。また、事故調査委員会では、潜航深度10フィートと言う、シュノーケルの長さよりも深い潜航深度の命令があったと記録されているが、実際にそのような命令ミスがあったのか(このようなミスは考えにくい)、記録上のミスなのかは不明。
 
この事故より先に[[イタリア海軍]]で似たような事故があった際、乗員が脱出用のハッチに折り重なったり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいる醜態を晒していたため、帝国海軍関係者も最初は醜態を晒していることを心配していた。ところが、実際にはほとんどの乗員は配置についたまま殉職、さらに[[佐久間勉|佐久間艇長]]は事故原因や潜水艦の将来、乗員遺族への配慮に関する遺書を認めていたため、これが「潜水艦乗組員かくあるべし」「沈勇」ということで、[[修身]]の教科書や軍歌として広く取り上げられたのみならず、海外などでも大いに喧伝評価された。[[アメリカ合衆国議会議事堂]]には遺書の写しが陳列されたほか、感動した[[セオドア・ルーズベルト]]大統領によって国立図書館の前に遺言を刻んだ銅版が設置され、[[真珠湾攻撃]]によって[[大東亜戦争]]([[太平洋戦争]])が勃発した後も撤去されなかった<ref>[[#次席将校]]p.109</ref>。イギリスの王室海軍潜水史料館には佐久間と第六潜水艇の説明があり、[[第二次世界大戦]]の後も展示され続けている<ref>[[#次席将校]]p.123</ref>。ある駐日英国大使館付海軍武官は、戦前から戦後まで英国軍人に尊敬されている日本人として佐久間を挙げ<ref>[[#次席将校]]p.122</ref>、戦後の日本人は「佐久間精神を忘れている」と1986年の岩国追悼式でスピーチした<ref>[[#次席将校]]p.124</ref>。
 
=== 殉職者 ===