「立花家千橘 (4代目)」の版間の差分

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樺太の生まれで戦後まもなく高知県に引き揚げた。[[名古屋市立菊里高等学校]][[定時制]]卒業。高校時代に演芸を知り[[大須演芸場]]に通うようになり[[1966年]][[6月1日]]、[[露の五郎兵衛#2代目|2代目露の五郎兵衛]](当時は2代目[[桂小春団治]])に入門、桂団丸を名乗る。[[1967年]]に[[うめだ花月]]が初舞台。[[1968年]]、師が2代目[[露の五郎|露乃五郎]]を襲名したことに伴い、[[亭号]]を「露の」に改める。
 
[[1993年]]、4代目[[立花家千橘]]を襲名し、[[1951年]]に[[立花家花橘#2代目|2代目立花家花橘]]が死去して以来、上方では途絶していた亭号「立花家」を復活させた。立花家は従来[[三遊派]]に属する色物芸人([[立花家橘之助]]はその一人)の亭号とされていたため、襲名に際しては[[橘家圓蔵 (8代目)|8代目橘家圓蔵]]<ref>2015年に逝去した時点でも前名の'''[[月の家圓鏡]]'''の名の方が通用したほど、一世を風靡した[[江戸噺東京]]の[[落語家]]。入門して間もない橘家竹蔵時代、師匠の7代目圓蔵にお伴をする形で[[戎橋松竹]]に出演した際、当時桂春坊と名乗っていた2代目五郎兵衛と知り合い、友人となっていた。</ref>の許諾を得ており、[[2015年]]現在圓蔵一門の分家扱いになっている。また同時に大阪[[俄]]の演者としては、4代目大阪屋町人を襲名した。
 
デビュー当時は[[名古屋弁|名古屋なまり]]が酷かったが克服している。音曲・舞踊にも通じ、[[杵屋流]][[長唄]]、[[松本流]][[御殿舞]]を長く続けている。