「サンフランシスコ・ジャイアンツ」の版間の差分
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1993年に[[ピッツバーグ・パイレーツ]]からFAとなっていたバリー・ボンズを獲得。ゴッドファザーだったメイズを尊敬していた彼は[[野球の背番号|背番号]]'''24'''を譲ってもらう意向だったが、既に[[野球界の永久欠番|永久欠番]]となっていたため受け入れられず、父ボビーがつけていた背番号'''25'''を着ける事となった。ボンズは初のシーズン40本塁打を記録する等期待に違わぬ活躍を見せ、チームも当初は西地区を独走していたが、ブレーブスの追い上げをくらい、ボンズはパイレーツ時代に続いてまたもブレーブスにワールドシリーズ出場を阻止される事となる。ウィル・クラークとのコンビは同年限りで彼が[[テキサス・レンジャーズ]]に移籍したため1年で解消となったが、1997年には[[ジェフ・ケント]](ただし、犬猿の仲だった)とコンビを組み、コンスタントに成績を残す。そんなボンズの体格が突然巨大化したのは本拠地を[[AT&Tパーク]](旧名称パシフィックベルパーク)に移した2000年シーズン以降で、2001年シーズンは[[マーク・マグワイア]]のシーズン本塁打記録を破ったが、ドジャースとのその試合では打ち負け、またもワールドシリーズ進出はならなかった。
[[新庄剛志]]が移籍した翌2002年シーズンは[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]から久々にリーグ優勝した。チーム内ではその唯我独尊的言動で浮いていたボンズとも好関係だった新庄は日本人としては初の[[2002年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]出場選手となったが、同じくワイルドカードから勝ち上がり出場した[[ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム|アナハイム・エンゼルス]]に惜しくも敗れた。その後も本塁打
しかし、この頃は「メジャーリーグの中のシニアリーグ」と揶揄されるほど高齢のベテランばかりのチームとなっていると指摘されるなど、2005年以降は3シーズン連続負け越し、2007年にはついに3地区制シーズン(1993年~)では1996年以来11年ぶりとなる4位以下に落ちてしまった。また、シーズン中の9月21日(現地日付)には、年俸の高さ、チームの低迷、チームの若返りの方針などにより、来期以降のボンズとの契約を延長しない意思を彼に伝え、ジャイアンツを退団する事となった。
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