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1527年に教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]](在位:[[1523年]] - [[1534年]])がフランス王・[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と同盟を結んだことをきっかけに、[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]による報復の[[ローマ略奪]]を招いた責任を問われてふたたび追放された。[[1530年]]にはクレメンス7世と皇帝カール5世が和解したため、メディチ家はフィレンツェに帰還、復権する。[[1532年]]には[[フィレンツェ公国]]([[1532年]] - [[1569年]])となった。[[1533年]]にクレメンス7世は、フランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と縁組みをまとめ、[[カトリーヌ・ド・メディシス]]と後の[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]が結婚。
 
カトリーヌは10人の子を産だもののフランスの政情は不安定で、[[ユグノー戦争]]([[1562年]] - [[1598年]])が勃発してしまう。教皇[[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]](在位:[[1566年]] - [[1572年]])のフランスへの影響力を示した[[サン・バルテルミの虐殺]]([[1572年]])が知られている。
 
[[1569年]]に、メディチ家の傍系からフィレンツェ公となっていた[[コジモ1世]]に、教皇ピウス5世の手で[[トスカーナ大公]]の称号がメディチ家に授与され、フィレンツェは[[トスカーナ大公国]]([[1569年]] - [[1860年]])の首都となった。コジモ1世は政庁(現在の[[ウフィツィ美術館]]や、[[ヴァザーリの回廊]]などを建設し、今日のフィレンツェの景観を作り上げた。