「丸山眞男」の版間の差分

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[[1946年]](昭和21年)2月14日、東京帝国大学憲法研究委員会の委員となる。憲法改正の手続きについてまとめた第一次報告書を執筆。なお委員長の[[宮沢俊義]]は、委員会で丸山が提示した「[[八月革命説]]」を、丸山の承諾を得て「八月革命と国民主権主義」として論文発表している(『[[世界文化]]』1946年5月号)<ref>『丸山眞男集 別巻』前掲書、47頁。</ref>。「[[超国家主義]]の論理と心理」を『[[世界 (雑誌)|世界]]』1946年5月号に発表<ref>『現代政治の思想と行動』上巻([[未來社]]、1956年12月15日)に収録された。</ref>。以後、[[戦後民主主義|戦後民主主義思想]]の展開において、指導的役割を果たす。この頃、[[三島大社]]境内に設けられた[[庶民大学]]など全国を巡り講義を行う。[[1950年]](昭和25年)6月、[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]教授に就任。
 
[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]をめぐる論争では[[平和問題談話会]]の中心人物として、[[1960年]](昭和35年)の[[安保闘争]]を支持する知識人として、[[アカデミズム]]の領域を越えて戦後民主主義の[[オピニオンリーダー]]として発言を行い、大きな影響を与えた。これらの時事論的な論述により、「アカデミズムと[[ジャーナリズム]]を架橋した」とも評された。後年、本人は現実政治の分析を「夜店」、日本政治思想史の研究を「本店」と称したことがある<ref>[[松本三之介]]「先生の学問的姿勢について憶う」(「未来」1996年10月号)</ref>。
 
===後半生===