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'''カール・レーヴェ'''(Carl Loewe, 本名:'''ヨハン・カール・ゴットフリート・レーヴェ'''(Johann Carl Gottfried Löwe), [[1796年]][[11月30日]] - [[1869年]][[4月20日]])は、[[ドイツ]]初期[[ロマン派音楽]]の[[作曲家]]・[[声楽家]]・[[ピアニスト]]。
'''カール・レーヴェ'''('''Carl Loewe''', [[1796年]][[11月30日]] - [[1869年]][[4月20日]])は[[ドイツ]]初期[[ロマン派音楽]]の[[作曲家]]・[[声楽家]]・ピアニスト。本名は'''ヨハン・カール・ゴットフリート・レーヴェ'''(''Johann Carl Gottfried Löwe'')。[[バラード#声楽曲のバラード|バラード]]と呼ばれる、劇的な内容と比較的長い演奏時間を要する[[歌曲]]の作曲を得意としており、そのため後に[[フーゴー・ヴォルフ]]によって尊敬された。こんにちではさほど有名ではないが、歌曲だけでも400曲、そのほかに器楽曲も残した精力的な作曲家であった。[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]とほとんど同時期に、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の詩による《[[魔王 (ゲーテ)|魔王]]》を完成させていたことは有名。
 
== 概要 ==
現在の[[ザクセン=アンハルト州]]に位置する[[レーベユーン]](Löbejün)に生まれ、母親から音楽の手ほどきを受ける。[[ケーテン]]で聖歌隊員を務めた後、[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]の[[ラテン語]]学校に通いながら同地でも聖歌隊員を務めた。レーヴェは美声のために、シュタール夫人に注目され、当時[[ウェストファリア]]国王だった[[ジェローム・ボナパルト]]から恩給を下賜されて、ハレ大学で[[神学]]を学びながら、さらに音楽教育を続けることができた。しかし[[1813年]]にジェローム・ボナパルトが逃亡すると、この恩給は打ち切られた。
'''カール・レーヴェ'''('''Carl Loewe''', [[1796年]][[11月30日]] - [[1869年]][[4月20日]])は[[ドイツ]]初期[[ロマン派音楽]]の[[作曲家]]・[[声楽家]]・ピアニスト。本名は'''ヨハン・カール・ゴットフリート・レーヴェ'''(''Johann Carl Gottfried Löwe'')。[[バラード#声楽曲のバラード|バラード]]と呼ばれる、劇的な内容と比較的長い演奏時間を要する[[歌曲]]の作曲を得意としており、そのため後に[[フーゴー・ヴォルフ]]によって尊敬された。こんにちではさほど有名ではないが、歌曲だけでも400曲、そのほかに器楽曲も残した精力的な作曲家であった。[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]とほとんど同時期に、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の詩による[[魔王 (ゲーテ)|魔王]]を完成させていたこと有名。
 
== 生涯 ==
現在の[[ザクセン=アンハルト州]]に位置する[[レーベユーン]](Löbejün)(Löbejün)に生まれ、母親から音楽の手ほどきを受ける。[[ケーテン]]で聖歌隊員を務めた後、[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]の[[ラテン語]]学校に通いながら同地でも聖歌隊員を務めた。レーヴェは美声のために、シュタール夫人に注目され、当時[[ウェストファリア]]国王だった[[ジェローム・ボナパルト]]から恩給を下賜されて、ハレ大学で[[神学]]を学びながら、さらに音楽教育を続けることができた。しかし[[1813年]]にジェローム・ボナパルトが逃亡すると、この恩給は打ち切られた。
 
[[1820年]]に[[シュチェチン|シュテッティーン]]に移り、オルガニストや学校の音楽監督を務めた。作曲家として最も活躍を見せたのもこの時期で、[[1824年]]にゲーテの『魔王''Erlkönig'' 』に曲付けをした。ゲーテ以外の詩人、たとえば[[フリードリヒ・リュッケルト]]や、[[シェイクスピア]]と[[バイロン]]の翻訳にも曲を付け続けている。リートのほかに、[[オペラ]]や[[オラトリオ]]、器楽曲にも取り組んだ。
 
[[1821年]]にユーリエ・フォン・ヤーコプと結婚するが、[[1823年]]に妻に先立たれる。洗練された歌手のアウグステ・ランゲと再婚し、しばしばレーヴェによるオラトリオの演奏会で夫婦共演を行い、非常に成功を収めた。
 
後半生においてレーヴェは作曲家としても声楽家としても有名になり、[[1840年代]]と[[1850年代]]には声楽家として、[[イングランド]]や[[フランス]]、[[スウェーデン]]、[[ノルウェー]]などで演奏旅行を行なった。ようやく[[ドイツ]]に帰国してから、シュテッティーンの職務を辞め、[[キール (都市)|キール]]に移ったが、同地で脳卒中を起こして急逝した。
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レーヴェはオペラを5曲書いたが、そのうち《3つの願い''Die drei Wünsche'' 》のみが[[1834年]]に[[ベルリン]]で上演され、大した成功を収めなかった。17曲のオラトリオは、多くは無伴奏男声合唱のために書かれている(短い器楽の間奏曲が挿入されたものもある)。その他の作品としては、2曲の[[交響曲]]、2曲の[[ピアノ協奏曲]]、合唱のためのバラードや[[カンタータ]]、4曲の[[弦楽四重奏曲]]、[[ピアノ三重奏曲]]、[[クラリネット]]と[[ピアノ]]のための小品、ピアノ曲集などがある。
 
しかしながらこんにちレーヴェの名が記憶され、完成の域に達したと認められている分野は、ピアノ伴奏つき独唱用のバラードである。詩の抑揚に沿った語るような旋律形成、劇的な調子と抒情的な調子の巧みな混合は、間違いなく[[ヨハン・ルドルフ・ツムシュテーク]]を模範にしているが、同世代や後進によって真似された。《'''魔王'''》のほかに《'''アーチボルド・ダグラス'''''』(Archibald Douglas'' 》)《'''鳥刺しハインリヒ'''''』(Heinrich der Vogler'' 》)などがとりわけ優れており、レーヴェの代表的歌曲としても知られている。
 
レーヴェはピアニストとしても活動し、歌曲の自作自演のほかに、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の[[2台のピアノのための協奏曲 変イ長調 (メンデルスゾーン)|2台のピアノのための協奏曲 変イ長調]]([[1827年]])の初演の際にピアノ独奏を作曲者と共に担当している。
== 外部リンク ==
* {{IMSLP|id=Loewe, Carl}}
 
== 外部リンク ==
* {{IMSLP|id=Loewe, Carl}}
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{{DEFAULTSORT:れえうえ かある}}
[[Category:ロマン派の作曲家]]
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[[Category:1796年生]]
[[Category:1869年没]]
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