「デメトリオス1世 (マケドニア王)」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== ディアドコイ戦争 ===
デメトリオスは[[ディアドコイ戦争]]に際しては父に随い、各地で戦った。[[紀元前312年]]に[[歴史的シリア|シリア]]に侵攻してきた[[プトレマイオス1世]]に[[ガザの戦い (紀元前312年)|ガザの戦い]]で敗れる。プトレマイオスはこの時デメトリオスの財産を手中に収めたが、[[捕虜]]とともにデメトリオスの元へ送り返した。それに感服したデメトリオスはその後、プトレマイオスの部将を破った時に7000の捕虜を得たが、プトレマイオスにされたことを自らも行い、借りを返した<ref>{{Cite book|和書|author=ブルクハルト|year=2000|title=ブルクハルト文化史講演集|publisher=筑摩書房|pages=129p}}</ref>
 
その後、デメトリオスは[[ギリシア]]に渡り、[[カッサンドロス]]と戦って[[アテナイ]]、[[メガラ]]などギリシアの諸都市をカッサンドロスの支配から解放し、自勢力下に組み入れた(とは言いつつもデメトリオスはギリシアの自由を標榜しはした)。
 
デメトリオスは[[紀元前306年]]の[[サラミスの海戦 (紀元前306年)|サラミスの海戦]]でプトレマイオス艦隊を破り、[[キプロス島]]を手中に収めた。そしてこの勝利を以って同年、父と共に王を称した<ref>{{Cite book|和書|author=ブルクハルト|year=2000|title=ブルクハルト文化史講演集|publisher=筑摩書房|pages=132p}}</ref>。他の[[ディアドコイ]]もそれに倣って王を称した。
 
デメトリオスは[[紀元前305年]]からプトレマイオスと密接な関係を持っていた[[ロドス島]]を攻撃する([[ロドス包囲戦]])も、ロドス側の頑強な抵抗にあい、ついに落とすことができなかった。しかし、彼はその過程で他の多くの都市を落とし、ポリオルケテスのあだ名を得た<ref>{{Cite book|和書|author=ブルクハルト|year=2000|title=ブルクハルト文化史講演集|publisher=筑摩書房|pages=134p}}</ref>。翌年、攻囲戦の長期化を望まないアンティゴノスとプトレマイオス双方が妥協し、両者の戦争においてロドスは中立を守るという和平協定が成立した。この協定はアンティゴノス側に有利なものであった。
 
ディアドコイ中最大の勢力を誇るアンティゴノスを警戒した他のディアドコイは対アンティゴノス同盟を結び、アンティゴノスと戦い、[[紀元前301年]]に[[フリュギア]]のイプソスにてアンティゴノスと[[セレウコス1世]]・[[リュシマコス]]連合軍が矛を交えた([[イプソスの戦い]])。その時、右翼を率いていたデメトリオスは背走する敵を深追いし過ぎたため、孤立したアンティゴノスの本隊が危機に陥った時に救援に回ることができず、アンティゴノスを敗死させてしまった。その後、アンティゴノスの遺領は他のディアドコイによって分割された<ref>{{Cite book|和書|author=ブルクハルト|year=2000|title=ブルクハルト文化史講演集|publisher=筑摩書房|pages=140p}}</ref>
 
=== イプソス以降 ===