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==東沃沮==
『三国志』東沃沮伝によれば、始め[[衛氏朝鮮]]に帰属していたが、漢の[[武帝 (漢)|武帝]]により[[漢四郡]]([[楽浪郡]]・[[真番郡]]・[[臨屯郡]]・[[玄菟郡]])が置かれた際に、[[沃沮城]](夫租城)を玄菟郡の県にした。以来、沃沮(夫租)は玄菟郡の支配下に入り、後に玄菟郡の縮小に伴って夫租県が[[楽浪郡]]に転属すると、沃沮(夫租)は楽浪郡に帰属することとなった。後、[[3世紀]]の頃には高句麗に臣従していた。[[魏 (三国)|魏]]の[[カン丘倹|毌丘倹]]が高句麗に攻め入った際には、高句麗王の宮(''[[東川王|憂宮''の脱字・略記と見られる)居]]が'''北沃沮'''に逃れたという。この記事に続けて北沃沮・'''南沃沮'''と言う表現が見られるが、南沃沮とは東沃沮を指す考えられている。
 
後に「[[靺鞨|白山靺鞨]]」となり、[[渤海国]]が建国されてからは渤海人の一部となった。
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『[[三国志]]』東夷伝東沃沮の条に、日本人([[倭人]])とみられる記述がある。
 
[[王頎]]が毌丘倹の命令で[[高句麗]]王[[東川王|宮]](位宮?、憂位居)を追撃し、北沃沮の東方の境界まで至った際、そこの老人に「この海の東にも人は住んでいるだろうか。」と尋ねると、「昔、ここの者が漁にでたまま暴風雨にあい、10日間も漂流し、東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では毎年7月に童女を選んで海に沈めます。」と答えた。また、「海の彼方に、女ばかりで男のいない国もあります。」や、「一枚の布製の着物が海から流れ着いたことがあります。その身ごろは普通の人と変わりませんが、両袖は三丈もの長さがありました。また、難破船が海岸に流れ着いたことがあり、その船にはうなじのところにもう一つの顔のある人間がいて、生け捕りにされました。しかし、話しかけても言葉が通じず、食物をとらぬまま死にました。」などとも答えた。
 
==言語系統==