「パンチョ・ビリャ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
41行目:
[[ウッドロウ・ウィルソン]][[アメリカ合衆国大統領]]は3月15日、懲罰のための遠征部隊12,000人を[[ジョン・パーシング]]将軍の指揮下メキシコに派遣した。このときのパーシングの副官が[[ジョージ・パットン]]中尉である。この遠征はアメリカでは{{仮リンク|パンチョ・ビリャ遠征|en|Pancho Villa Expedition}}として知られる。遠征中にアメリカ軍初の航空機による戦闘任務が下され、索敵のため8機のカーチスJN-2が3月19日に飛行している。しかしチワワ州で圧倒的な人気のあったビリャは、米軍に捕らえられることはなかった。6月に入り、アメリカ軍は{{仮リンク|カリサル村|es|Carrizal (Chihuahua)}}でビリャ軍と誤認してメキシコ政府軍と衝突、[[カリサルの戦闘]]としてアメリカとメキシコの緊張が高まった。事件が原因となり遠征は失敗、1917年1月28日にビリャの探索は打ち切られた。
 
=== 暗殺 ===
1920年の和平協定でビリャ軍は武装解除され、ビリャは故郷のチワワ州で広大な土地を得て3人の妻と6人の子供、革命活動の同志やその家族たちと農場を経営し農園主として平和に暮らしたが、1923年7月20日に友人の子供の名付け親になるため{{仮リンク|パラル市|en|Parral, Chihuahua}}に出かけた帰り道で銃撃を受け暗殺された。暗殺犯は不明のままで終わったが、[[プルタルコ・エリアス・カリェス]]、{{仮リンク|ホアキン・アマーロ|en|Joaquín Amaro}}、アルバロ・オブレゴン等の軍部が関係していたとされる。ビリャはメキシコの大衆から英雄として扱われたが、[[メキシコ革命]]正史上では無視され続けた。彼が議会で正式に革命の功労者とされたのは死後43年経った1967年のことであった。