「毌丘倹」の版間の差分

編集の要約なし
{{出典の明記|date=2015年6月}}
{{記事名の制約|title=毌丘倹}}
'''&#x6BCC;丘 倹'''<ref>[[中華書局|中華書局本]]発行の『[[晋書]]』にある「校勘記」によると、姓の『&#x6BCC;』の字は貫くの意で、毋(ブ)・母(ボウ)と混同し易いが、別字である。また、『晋書』の注釈書の一つである『[[晋書音義]]』によると、&#x6BCC;の字は毋であり、音は「ブ(無)」で「ぶきゅうけん」と読むべきだと記されているが、後の研究により「かんきゅうけん」が正しいことが判明している。</ref>(かんきゅう けん、? - [[255年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]の武将。[[字]]は'''仲恭'''。[[司隷]][[運城市|河東郡]][[聞喜県]]の人。父は{{lang|zh|毌}}&#x6BCC;丘興。妻は荀氏。弟は&#x6BCC;丘秀。子は[[カン丘甸|&#x6BCC;丘甸]]・&#x6BCC;丘宗ら。孫は&#x6BCC;丘重・&#x6BCC;丘奥。孫娘は&#x6BCC;丘芝。
[[File:Guanqiu Jian commemoration stele.jpg|thumb|&#x6BCC;丘儉帶步騎兵萬人出[[玄菟]]討伐[[高句麗]]]]
==経歴==
 
==毌丘倹の遺跡==
[[1906年]]、輯安北方で「毌丘倹紀功碑」が発見された。242年(魏の[[正始_(魏)|正始]]3年)の建立と見られ、高句麗征伐の功績を称えたものである<ref>[[京都大学]]人文科学研究所所蔵 [[石刻]][[拓本]]資料 [http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/imgsrv/takuhon/type_b/html/gis0006x.html 文字拓本  魏晋  魏〓丘紀功碑]</ref>。
 
また、[[2005年]][[3月5日]]、本籍地である[[山西省]]運城市聞喜県で、毌丘倹とその一族を祀った碑が発見された。碑には毌丘一族18名の姓名と、背面の下方に“難主毌丘儉”と刻まれていた。「難」とは、司馬師に敗死する難に遇ったことを意味する。両側には、建立主と見られる毌丘元顯、その子の世威、その子の毌丘孝忠、比丘([[僧|男僧]])などの姓名が刻まれていた。『[[平陽府志]]』によると、毌丘元顯が[[399年]]頃に毌丘寺で修行をしており、碑はこの前後に建立されたと見られている<ref>[[新華社]] [[譚博文]]「[http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/collection/2005-03/05/content_2651754.htm 山西發現三國人物遇難紀念碑]」</ref>。
匿名利用者