「有藤通世」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
リンク修正
72行目:
1989年は「ランボー」の愛称で親しまれた[[マイク・ディアズ]]を獲得する。ディアズはシーズンでも打率.301・39本塁打・105打点という成績を残し、西村も42盗塁で4年連続盗塁王を獲得した。投手は先発に転向した牛島が12勝を挙げ、村田は防御率2.50で最優秀防御率を獲得。しかし他の投手陣が軒並み不振に陥り、同年は勝率3割台(.393)という屈辱で2年連続で最下位となった。この結果を受けて有藤は監督を辞任し、後任には金田正一が就任した。後年、有藤はこの監督時代について「本当は1年目に辞めたかった、負けてばかりで悔しい、選手からいきなり監督はやるべきではない」と回想している。
 
1988年10月19日のいわゆる「[[10.19]]」と称される対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]][[ダブルヘッダー]]第2試合で、近鉄・[[阿波野秀幸]]の牽制球をめぐって9分間抗議した一件(詳しくは10.19決戦の項目を参照)があったことから、「近鉄の優勝を阻止したロッテの監督」のイメージを持たれることになった。自宅等にはこの試合後、「[[埼玉西武ライオンズ|西武]]にいくら貰っている?」「近鉄になんの恨みがある?」など抗議の電話が殺到したという。有藤は、「ロッテから見ると消化試合で正直、西武と近鉄どっちが優勝してもよかった。プロの監督として納得がいかないので抗議しただけだ」と話しており、「当時は批判ばかりだったが、しばらくするとプロ魂を見せたと賞賛する声も増えてきた」という言い訳をしている。また、後に[[日本放送協会|NHK]]ドキュメントで、第2試合9回裏の「あの抗議は、結果としてはしない方がよかった」と語っており、『[[Sports Graphic Number|Number]]』より発刊されたこの試合のビデオでのインタビューでは、同様の発言に加えて「白黒ハッキリした方が良かった」という主旨の発言もしを二転三転させている。
 
さらに2009年2月7日放送の「伝説のスポーツ名勝負 いま明かされる舞台裏の真実」([[テレビ朝日]])では「(あのプレーは)アウトなのだが、選手(古川)が助けを求めているから抗議に行かざるを得なかったわけだ」とも述べている。[[2012年]]『[[週刊現代]]』のインタビューでは、第2試合の初回に第1試合で4安打した[[佐藤兼伊知|佐藤健一]]が[[死球|デッドボール]]をぶつけられたが、[[仰木彬]]監督が謝りもせず「もう休めよ」と言ったことで仰木の人間性を疑い、これが9回の抗議の伏線になったと言い訳している<ref name="gendai">{{Cite journal|author=[[週刊現代]]|year=2012年|month=11月3日号|title=週現『熱討スタジアム』近鉄×ロッテ「10.19ダブルヘッダー」を語ろう 有藤通世×金村義明×阿波野秀幸|journal=[[講談社]]|volume=|issue=|pages=164頁}}</ref>(2試合ともに出場したロッテ・[[愛甲猛]]も自身の著書において同様の記述をしている)。ロッテ応援団長の[[松本真一 (実業家)|松本真一]]からは第1戦の敗戦を見て「あの負け方は何だ!2戦目は(優勝阻止するよう)意地を張れ。」と言われていたという。
 
== 選手としての特徴 ==